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『般若理趣経』本不生釋 [思索]

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大楽金剛不空真実三摩耶経 般若波羅蜜多理趣品
【経解釈】
 私は本不生の喜びを体得し、金剛の世界の真髄に目覚めた時、『般若理趣』の尊い響きをこのように聞いた。
『般若理趣』を響かせる遍照金剛マハーヴァイローチャナ(光り輝くもの)は、まさに次の如くであった。
 普賢金剛の智恵をもって、すべてのものを導きて菩提心を発こさしめ、真実の世界を創造させ給う。
 広大な真理の世界を開顕する智恵の宝冠を耀かし、無明の闇黒に沈み苦悩するもの達に、内に秘めた宝性を顕わにして、「自身の光となれよかし!」と導きて、そのかけがえなき「不生の仏心」を確立させ給う。
 真如の恵眼をもって、世界の真実を観察し、すべての「不生の仏心」をして、差別対立を超えた平等大悲の心へと導き給う。
 あらゆるものを隔てなく導きて、すべての「不生の仏心」なるはたらきを為せるよう導き給う。
 遍照金剛マハーヴァイローチャナ(光り輝くもの)は、大慈大悲の本不生心を以て、悉く真如の光となり、円満に成就するようにと、刻々に、いのちあるものの身口意の全行動を導き給うている。
 この遍照金剛マハーヴァイローチャナ如来(光り輝くもの)は、他化自在天の宮殿に臨在しまして、「本不生」の親説をお説きになられた。
 他化自在天の宮は、一見すると、地獄の業火が燃えさかり、尊き「不生の仏心」がことごとく疎外され、搾取され、苦悩の激流に押され、怒濤逆巻く波に苛まれるがごとき世界であったが、
 そこに、マハーヴァイローチャナ如来(光り輝くもの)が在しまして、真理の光を充たし給うた。そのみ光りに気づくことで、たちまち業火は清らかな智恵の五色の光明に転じ、猛り狂う嵐は止み、心地よい微風に、繒幡がはためき、鈴鐸の麗しい響きに、みな、安らいたり。
 たとえ、孤立・孤独にうち沈みたるものも、いつしか、清浄珠玉の仏心が自ら輝きだし、互いに清らかな慈愛の光に満たされて、荘厳な調和のヒビキ(創発波調)となる。
 その響きに誘われ、あらゆるものが、相和し、清浄で、穏やかで、しかも、活気に満ちた世界となる。
 遍照金剛マハーヴァイローチャナ如来(光り輝くもの)ともとに集う方々は、八十億ともいわれる真如を響かせる菩薩である。とりわけ麗しき光輝を放ちたる菩薩は、八大菩薩と称えられた。その八大菩薩とは、 
 一、金剛手菩薩大菩薩。
 すなわち、金剛の智に目覚め、厳しく自己を見つめ、おのれの迷いを克服し、本不生に生きるよう導かれる大菩薩である。
 二、観自在菩薩大菩薩。
 すなわち、すべては清らかな大慈大悲の不生の仏心の耀きであると観じ、「不生の仏心」ただ一つで生きるよう導かれる大菩薩である。
 三、虚空蔵菩薩大菩薩。
 すなわち、豊かな心と無限の宝を見出して生きるよう導かれる大菩薩である。
 四、金剛拳菩薩大菩薩。
 すなわち、刻々に新たに創造される本不生を体して、何事にも停滞することなく、一心不乱に活動するよう導かれる大菩薩である。
 五、文殊師利菩薩大菩薩。 
 すなわち、自我の蒙昧な欺瞞性を見抜き、事物の真相を直視していくよう導かれる大菩薩である。
 六、転法輪菩薩大菩薩。
 すなわち、あらゆる迷いの根源に気づき、転識得智するよう導かれ、本不生の大法輪を転じられる大菩薩である。
 七、虚空庫菩薩大菩薩。
 すなわち、現象界に刻々と停滞なく流入する本不生の無尽蔵なる大慈大悲を以て天真爛漫に生きられるよう導かれる大菩薩である。
 八、催一切魔菩薩大菩薩。 すなわち、魔障の欺瞞性を見抜き、打破し、真如を貫いて生きるよう導かれる大菩薩である。
 八大菩薩とはこのような菩薩である。
 マハーヴァイローチャナ如来(光り輝くもの)は般若理趣の真如をよく響かせる菩薩たちとともにおられる。そのヒビキ(創発波調)は、何れの時、何れの処にあっても、「不生の仏心」の奥底に停滞なく響く真如の妙音であり、すべてのものを遍照の世界、清浄の世界へと誘う。すなわち聖なる喝(創発波調)が通奏低音のごとく響いているのである。
法圓寺版般若理趣経_ページ_14.jpg
【経解釈】
 般若理趣の真髄は、浄穢の分別を超えた、あらゆるものが本不生から創発された本来清浄の流れ、真理の光にあることを示していることにある。
 今、この一切法が清浄なる妙理であることを十七の清浄の法門に喩えて示そう。
 すなわち、世間における「妙適・欲箭・触・愛縛・一切自在主・見・適悦・愛・慢・荘厳・意滋沢・光明・身楽・色・声・香・味」などは、すべての苦しみの基いとなるもので、不浄なるいまわしきものとして、修行者はこれらの欲を克服しなければならないとする。
 あるいは、逆に、神人合一や無上ヨーガおけるエクスタシーを覚醒のごとくたとえて、「妙適・欲箭・触・愛縛・一切自在主・見・適悦・愛・慢・荘厳・意滋沢・光明・身楽・色・声・香・味」を覚醒の手段とするものもいる。
 だが、現実は、いかに、巧妙に自己陶酔感を味わおうとも、薬物依存と同様、これらは、いまわしき地獄の門へと誘う欺瞞の道である。なぜなら、これらは、五蘊に執着する自我の所業から生じているものであり、それこそが、苦しみをもたらすものである。
 自我における苦楽の不浄の構造に気づくならば、実は、「妙適・欲箭・触・愛縛・一切自在主・見・適悦・愛・慢・荘厳・意滋沢・光明・身楽・色・声・香・味」は、なんら不浄のものではなく、本来、本不生清浄の法門であることがわかるのである。
 以下、なにゆえに、一切法が清浄なる妙理であり、この十七の法門も清浄の法門であるかを説き示そう。
 本不生から生じている「不生の仏心」ではあるが、五蘊による蒙昧なる愛欲などに縛られるのは、自我なのである。欲望の矢箭に、自我心が射貫かれ、肉欲に耽けり、愛憎の鎖に繋縛される。その最も邪悪で不浄な心は、我欲における搾取性と自己欺瞞性にある。これ等の生き方は、いつも、激しい葛藤と争いを生じ、苦しみを生み出す。この故に、求道者は、これらの愛欲は、修行の妨げであり、世俗における惑いや激しい葛藤を引き起こす、まさに、いまわしいものとして斥けてきた。だが、一切法清浄のヒビキ(創発波調)、すなわち本不生の仏心を体するには、これらの愛欲の問題は、全て、虚妄なるものへの執着と我欲における欺瞞の所業であることに気づけとブッダは促されたのである。
 自己観察によって、この、自我我欲の欺瞞性に気づいたとき、我欲はたちどころに消失する。この、おぞましき自我を直視することによって、その蒙昧性を自覚する。この気づきにより、自我の蒙昧性は自ずと消失する。自我が現れないところに葛藤は生じない。こうした如実知自心というブッダ親説の自己凝視による気づきがあって初めて、本不生心が自ずとあらわになる。
 不浄を浄の変えようといかに厳しい修行を重ねようとも、この、自己凝視がなければ、自己欺瞞性からは抜け出れない。ブッダが最もいさめられたのは自己欺瞞(自我)による執着であった。不浄は不浄、清浄は清浄。不浄が清浄とはならない、清浄が不浄とはならない。不浄は自我の欺瞞性にある。自我の欺瞞性に気づき、本来清浄なる世界に生きることを示すのが清浄の法門である。
 よって、清らかな菩薩は本来の慈愛のヒビキ(創発波調)を顕わにし、調和と安らぎをもたらすものなのである。
 ゆえに、気づくべきは、巧妙な自己欺瞞の構造、すなわち、浄穢のこだわりの背後に潜む「我見の罠」なのである。
 確かに、われわれの生活上、おろそかにできない浄穢の峻別があり、それは重要なことであるが、五蘊における我見や妄見による浄穢観は、かえって、世界に、おぞましい差別と骨肉の争いと分離と対立を引き起こす要因となる。聖俗に限らず陥るこの欺瞞の構造。信念や我見や我欲への固執が引き起こす苦悩の問題を直視しなければ、ブッダ親説の般若理趣の法門は顕わにはならない。
 正義や権威の名の下に繰り返される欺瞞性の問題に気づかないかぎり、天真爛漫なる本来の「不生の仏心」の響き、あるがままの実相が顕れることはないし、この虚妄による際限もない凄惨な苦悩を終わせることもできない。 
 本来、全てのいのちは、こんこんと湧き出る、汲めども尽きせぬ阿字本不生の源泉から、分け隔てのない慈しみや愛として、時々刻々に、全き新たないのちをはぐくむ、かけがえのない顕れである。
 五蘊による我欲は、その本来のものを見誤るものであることをしっかりわきまえて、次のことを観ていこう。
 さて、「抱擁」についてであるが、穢らわしいとされる抱擁は、その抱擁の陰にある、我欲よる自己中心性、搾取性、欺瞞性にある。いかに甘美な抱擁も、相手を喰いものにする我欲であるならば、必ず、相手を破壊し、破綻をきたすものである。
 しかし、本来、慈しみやかぎりない愛の自然な現れが抱擁となっている。それは本不生と感応同交する慈しみの加持である。まさしく、慈母の恩愛のようにかぎりない慈しみが、あらゆるものの「不生の仏心」をはぐくむように、これは、汲めども尽きせぬ新たな創造の源の自然な顕れなのである。
 一見すると、この世界は種を保存する本能が働く生存競争の激しい世界ではあるが、しかし、何ものといえど、本不生から逸脱し、自然の摂理から逸脱した我欲によるならば、必ず、種の自滅への道をたどらざるを得ない。
 さて、「ものごとを究めんとすること」も、そこに我欲がはたらけば、相手を射殺す毒の矢箭ともなる。いかに我欲が巧妙な探求心を装っていても、我欲である限り、自己中心の葛藤や搾取や暴力性を内包している。
 とはいえ、そもそも、「ものごとを究めようとする心」は、創造世界に対する天真爛漫な心の顕れであり、自然に湧いてくるものである。我欲は、そういった、純粋な動機や赤心(無垢な心を)のものが阻害された精神のゆがみに他ならない。
 同様に、自然な心身の「慈愛の触れ合い」も、我欲の身びいきが働けば、搾取となり、苦しみとなり、破綻をもたらす。
 ここで重要なことは、「我欲の欺瞞性に気づくこと」である。欺瞞に気づくことで、我欲は失せる。失せなければ我欲は残っている。我欲に気づかなければ、巧妙に欺瞞を重ねるだけで、我欲の延長でしかない。そこに気づくこと、これが大事で、気づけば、欺瞞は失せて、本来の不生心が顕れ、互いを慈しみ、活かす、清らかな交流となって花開く。
 そこには欺瞞に基づく渇愛や憎悪や嫉妬や葛藤の苦しみは微塵もない。天真爛漫な喜びが湧いているのである。
 また、このような自我に惑わされない慈愛の心は、「道を求めて止まないもの」となる。これは、搾取や欺瞞に基づくものとは根本的に異なり、これらとは厳しく対峙する。それは、まさしく、欺瞞性に対す、厳粛に立ち向かう。このような厳粛性による勇猛果敢な変革の行動は、まず、自己変革とともに、世の中における革新的な行動となって顕れる。自我や、思想や理念や宗教などで虚飾された妄信や狂信などの欺瞞によるものとは全く異なる本来の革新の力を生む。
 さて、「歓喜」であるが、欺瞞にみちた我欲は、目先の快楽に逃避し、本不生を見失い、欲求不満や不安におびえつつ、果てしなく貪欲と渇愛に溺れていく。
 しかし、このように自身を滅亡の淵に導くものが我欲の欺瞞性にあることを、自己をあるがままに観察することで気づくならば、自我は消失し、もともとの慈愛の本心が顕わになる。これはまさに、愛と喜びが本不生のものであり、そのいのちの源泉からこんこんと湧き出づるいのちそのものの歓喜であるのである。自分のためとか、他人のためとかそういった欺瞞の構造とはおよそ無縁な、天真なる心のなせる業である。
 そもそも、このような、「不生の仏心」の源泉である本不生を離れては、「不生の仏心」の創造性は、枯渇し、停滞し、死滅するものであろう。
 自我我欲や自己保存の欺瞞性に気づき、五蘊による我見への固執が微塵もなくなってこそ、一切法清浄である本不生の顕現、すなわち、刻々のいのちの源泉を汲むことができるのである。
 この世で生かされ生きる「不生の仏心」の営みにこそ、あらゆる苦難を乗り越え、真理の世界を実現していく、限りない創発の力が秘められている。欺瞞を離れ、真理に気づき、自身の光りとなってこそ、あらゆるものとともに、喜びに満ちた新たな世界を刻々に創造しうる。これが本来の我々であり、これこそが菩薩の道といわれるものである。
 さて、「快楽」であるが、自分を美しく飾りたて、快楽の世界に心を奪われ、肉欲に耽ることは、明らかに修行の妨げとされてきた。
 確かに、虚ろな我欲の罠にはまった執着心、渇愛の自己欺瞞は、心を惑わせ、修道の妨げとなるであろう。 
 だが、自分のこの虚ろな我欲をあるがままに理解し、気づくことによって、その心は鎮まり、本来の天真爛漫な喜びと豊かな生をもたらす自分が顕わになる。
 このように本来の自分とあるべき自分とを分離せず、自身のあるがままを見つめ、気づきを深めることで、自他一如の菩薩の本心が顕わになり、真理をもって世界を荘厳し、偉大な法城を建設し、探求と創造のいとなみを遂げていく。
 これこそが、無限の徳を備えた普賢金剛薩埵 即ちビルシャナ佛の本不生から湧き出る世界創造の源泉である。
 眼に見る世界、耳に聞く世界、鼻に嗅ぐ世界、舌に味わう世界、これら色声香味の感覚より生ずる世界ではあるが、事物の五蘊に投影し、留めた仮象は、虚妄であり、実体ではないことに気づくことが重要である。
 しかし、同時に、これらの事物を離れて、刻々に新たに創造す本不生は現象化しないという事実も重要である。
一切法清浄のヒビキ(創発波調)が現象する背景には、先験なる本不生(金剛界大日如来)と潜象なる本不生(胎蔵界大日如来)が滞留なく、加持感応・同交(金・胎両部不二として互換重合)することで、森羅万象が現象化しているということを理解せねばならない。
 この現象化の事実は阿字本不生なるが故に、「時空を超越」したところのものである。「時空を超越」しているということは、単に、歴時的に刹那滅であるというのではなく、創造の源泉は時空に非らざるもので(欺瞞的で観念論上の非有・非空ではない)、見えざるものであるはが、明らかに「事象と相即不離にある」見えざる源泉を指し示している。
 「先験なる本不生における如来の三身」も、然り。観念論や概念上、あるいは単なる象徴論的に法身や加持身説などの議論も含めてではあるが、畢竟、我見による欺瞞性に気づかないものであるならば、ビジョンや象徴などの概念における不毛の論、すなわち「虚妄の法」に陥り、事象の空の実相における「先験なる本不生における如来の三身」という本不生すなわち「見えざるもの」の実相的基盤を失い、単なる概念的象徴的蒙昧な議論と化す。
 此処で留意しなければならないことは、五蘊を超えているものは、五蘊では把握できない。しかし、把握できないからといって無いのではないということである。
蒙昧な「有・無」の観念上の議論だけでは「本不生」は扱えないということである。
 故に、ブッダ親説である「この外界に、先験より停滞なく、今の変動が経過し、全き新しき変動として、刻々に創造され、相続される」という実相。この実相におけるブッダ親説の「空」というものを理解し、本不生に生きることが、この般若理趣経において、最も問われていることである。
 森羅万象は本不生の現象化であり、本不生を体し、刻々に、いま、ここに、新生創造される無限の活動の中にある。
 本不生であるが故に、森羅万象は、すべて、清らかで、菩薩の心が顕現しているともいえる。(しかし、仏教学上、仏心や菩提心や仏性などは、ブッダ親説にあらざる虚妄なる仏心論にすぎないとする筋もある。が、ここで、否定されているものは、仏心論にみられる欺瞞である。虚妄の法における仏心論のことである。すなわち、観念的仏心論である。したがって、歴然として作動している実相としてのブッダ親説の本不生そのものである仏心は否定されない。)
 この現実の森羅万象と同様、見えざる世界も事象として作動している。それが、五蘊には把握できないだけである。しかも、五蘊に見えている世界も見えざる世界も五蘊そのものを超越しており、しかも、相即不離にある。すなわち、森羅万象は目に見えている世界だけではなく、「先験より停滞なく、今の変動が経過し、全き新しき変動として、刻々に創造され、相続される不生の仏心が作動している」見えざる潜象の世界とが相即不離・互換重合・感応同交し、統合されたなかに現象化しているということである。
 般若波羅蜜多の慧眼を開いた者は、仮象に固執することなく、刻々に新たに創造す本不生の実相をあるがままの中に、見えざるものを見るのである。
 さて、迷いの世界と悟りの世界。求道者は、異なる二つの世界があるとして、迷いの世界を離れて、悟りの世界に入ろうとする。しかし、穢れたものが同時に清らかであることはないように、また、暴力が同時に非暴力でありえないように、穢れや暴力の本性に気づき、その根源を絶たないかぎり、不浄から浄へ、暴力から非暴力へと改変したり移行しようとすることは、不浄や暴力などを内包したままで浄や非暴力を目指そうとする欺瞞性を含んでいること、すなわち非暴力という暴力、清浄という不浄があることを正確に理解せねばならない。不浄や暴力の本質を見据えない限り、この欺瞞に陥る。ダメなものからマシなものへと改善しようとする欺瞞性があるかぎり、事態はさらに混乱し、より深刻な葛藤に陥る。迷いの世界から悟りの世界に到ろうとしても、そこに迷いがあれば、悟りはない。しかし、迷いに気づけば、悟りは顕れるのである。
 自我という五蘊の蓄積に基づく虚妄の法に無関係な外界の実相は本来清浄一如のものであって、浄穢の別、迷悟の別を超えている。我見による欺瞞に気づき、真理に目覚めるならば、般若波羅蜜多は、自ら開かれる。清浄世界は、自ずともたらされる
 金剛手よ、若しこの清浄世界を見開く、般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)に感応するならば、発心から悟りの完成に至る修行の間といえど、また、たとえ、自己の心を動揺させる様々な障害(一切蓋障)や、愛欲より起こる煩い(煩悩障)や、知識より生ずる偏見(法障)や、自己の行為より生ずる様々な悩み(業障)などを積み重ねる迷いが生じていたとしても、時間をさかのぼり、過去に戻って、やり直すことも、取り消すこともできない。
 なぜならば、外界の実相は阿字本不生の歴時性にあり、過去は消え去り、未来は未だ顕れないものだからである。
 この外界の実相をわきまえられず、あたかも外界の事象を実体の事象ととらえ、その実体が過去・現在・未来へと流転しているものだと誤認するのは、五蘊の蓄積されたものに依存するからである。
 むろん、われわれは、外界を把握するには、この五蘊の感受性を無視できないし、五蘊によらざるを得ないのだが、この「五蘊に蓄積されたもの」に依存して外界を見ていることから生じる問題というものは、単に「経験がものをいう」というばかりではなく、蓄積されたものによって外界の事象をみるということは、その経験に条件づけられた色眼鏡で見るようなもので、必ずしも、外界を的確に把握しているとは限らないばかりか、むしろ、この五蘊に記録された仮象を実体とみて、この実体が外界に現象していると錯覚をおこしてしまう問題があり、これをブッダは虚妄の法と指摘された。 
 つまり、五蘊に蓄積されたもの通して見る外界は実相を見ていることにはならない。なぜなら、決してとどまることのない実相を五蘊によって認識し、その写し取りった断片化された一コマをつなぎ合わせて一連の動きとして連想し見ているからである。次から次と押しよせる実相そのものを五蘊が追うことはできない。なぜなら五蘊は感受されたものの記録によって成り立っているにすぎないからだ。その五蘊に記録された断片をいくら積み重ねて見たとしても、実相は去っており、記憶は止められた画像にすぎない。ゆえに、五蘊にあるものは、仮相であり、決して実相なのではない。
 このことをして「五蘊の認識に基づいたものは虚妄である。」とブッダは指摘されたのである。
 同様に、いかなる認識のレベル( 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)においても、「感受されたものを記憶し、それに基づき外界や内界を認識するものは、すべて虚妄の法にある。」とブッダは指摘されている。
 外界の事象は、それらを超越している本不生の「先験より滞留なく今に経過し、消失する」という実相において持続されてはいるのだが、それは、決して、認識された観念的実体が持続していることではないということである。(これはブッダ親説の中で、最も難解とされるところのものである)
 しかし、ブッダは仮相を実体視する五蘊の認識における「欺瞞性」とその構造を明らかにされたが、外界の実相を否定されたのではない。
 ゆえに、虚妄ならざる外界の事象は、現象と潜象(先験性)の加持感応同交(互換重合性)であり、歴時的に時々刻々と、たえず新たに新たに創造されるものである。これらの外界の事象は、五蘊によらざれば感受できないが、この感受したものを五蘊に留め、五蘊に基づき、意識や概念の世界を押し広げ、それを実体化して、それに執着する欺瞞性が否定されているのである。
 しかし、ここで、さらに注意せねばならないことは、外界の実相における事象としての見えざるものとの瑜伽性(加持感応同交)は否定されないのである。
 ブッダ親説において否定される瑜伽性は虚妄の認識すなわち幻想であり、そもそも、架空の不存在なるもの(画餅)でしかなく、そうしたものと瑜伽(加持感応同交)性は、そもそもあり得ないのである。
 虚妄にすぎない概念上のものに加持感応同交する瑜伽はそもそも存在しない。それは、いかなる神聖なビジョンといえども五蘊の幻想に基づくならば、自己満足と、錯覚と、ひいては自家中毒的錯乱状態を招きかねない。したがって、これらは、いかに偉大なる宗教や修行法であると喧伝されようとも、何ら本不生における瑜伽性とは無縁のものであり、虚妄の法であることを見抜かなければならない。
 しかし、何度も言うように、これは、事象における本不生と現象が相即不離にあるという瑜伽性(感応同交)は否定されえないのである。同じ見えざるものといっても、架空の見えざるものと、実相における見えざるものとは全く異なるのである。しかも、見えるものと見えざるものは別個のことではなく、事象として相即不離にあり、どちらか片方だけを追求していっても、本不生の実相を理解することはできないのである。
 認識によってくみ上げられた観念上の過去・現在・未来の時間や空間は、既にブッダにより、虚妄の法として斥けられている。
 本不生は、外界に、先験より停滞なく、今の変動が経過し、全き新しき変動として、刻々に創造し、相続される。これが空の実相であり、空の実相は、絶えず、いま、ここ、である。従って、現象界も先験なるみえざる潜象界も、絶えず、いま、ここであり、死後、渡る彼岸ばかりではなく、此岸と彼岸はたえずいまここに現前しているということである。それを覚らないのは、虚妄の自分。自我に縛られたままの片寄った自分に固執しているからである。
 本来のものは、いま、ここに、絶えず新たなものとして現前している不生の仏心である。その不生の仏心を自我に付け替えて、その自我が迷っている。その迷いがまた、森羅万象において破壊や苦悩を展開させることになっている。これは、いかに、自我に迷ってしまった状態とはいえ、不生の仏心として生かされているものとしては、いまここで此岸と彼岸に対し、この迷妄なる自我の責任は大変重いのである。
 故にこそ、五薀におけるさまざまな障害をふまえて、いま、ここに人類が実相を観察するならば、瞬時にその欺瞞性を了得し、自己変革を起こしたならば、たちどころに地獄の闇は消失するのである。 
 また、取り返しの利かない重罪を犯してしまった場合、もちろん、その犯した罪の事実と重さは免れ得ない。だが、それで、不生の仏心がなくなるわけではない。問題を起こした自我そのものが、いま、ここで、その罪を自覚し、罪のもとである自身の問題を自覚できたなら、その問題の根源を断ちきり、全く新たなものとして、本質的自覚の故に、自我に迷わされていないものとして、生まれ変わるのである。本不生なるがゆえにこそ、いま、ここで、変革を起こすのである。自我の見せかけによる変貌とは異なる。
 ここに理趣経におけるブッダの般若波羅蜜多の真理趣があるのである。
 様々な迷いが湧き、起ころうとも、この『般若波羅蜜多の真理理趣』である本不生に加持感応同交、日々、刻々に体するならば、現生(いまここ)において、聖俗は一如といえる。迷いの雲(俗性)は晴れて、満月のごとき本不生の仏心が耀き出るのである。
 おお!。般若理趣の普賢金剛薩埵 の究極の真髄、『清浄大楽(清らかなる慈愛の光に満ちた)』の阿字本不生を証得(了得)するのである。
 現実の生活の中における、あるがままの真実を直視しなければならない。事象の現実を離れた妄想の神々を妄信して、現実逃避をしていてはならない。あるべき理想と至らざる自我の現実の不毛の戦いに、いまこそ、終止符を打たなければならない。
 (現代のいま、ここで、なぜ、この過去に示された般若理趣の法門がひびいているのであろうか。 それは、まさに、現代の我々ひとりびとりに「自覚を促す見えざる世界から何かが働いている」としかいいようのない不可思議な事象に導かれてのことである。よって、不肖を顧みず、般若波羅蜜多の真理理趣を紐解こうとしている。他人事ではない課題が秘められていることをご理解いただきたい。)
 いまここに五蘊が目撃するその生の事実を通じて、生をあるがままに観察し、「真実の中に偽りを観じ、偽りの中に真実を観て、真実を真実と観じ、偽りを偽りと観じ」てこそ、真実を覚り、屈託のない心で、慈愛の喜びに溢れ、苦悩の生の中に、輝かしい自身の光を見いだせるのである。
これが叡智を実践し、力強く生きる如来の慈悲のありかたであるのだ。
 時に、世尊マハーヴァイローチャナ如来(光り輝くもの)は、この阿字本不生を実現するために、自ら金剛手菩薩となって、その実践の道を示された。この金剛手菩薩こそは、一切如来の心、そして大乗仏教の真髄である金剛界大曼荼羅の世界を体得し、叡智をもって根本煩悩と対決し、清浄心をもって煩悩を滅し、本不生の宝を与えていく、偉大なるマハーヴァイローチャナである。この渾渾と湧き出る大慈大悲こそが、すべてのものを慈しむ本源なのである。
 まさに、金剛手菩薩は大慈大悲と、確固不動の生き方と、大菩提心と、大勇猛心(果敢に取り組む心)を以て刻々に生きる大楽金剛不空三昧耶の実相を示された。
 轄 フーン、条件付けられたあらゆる執着よ、せまい心よ、金剛不壊心によって打ち砕かれん。清浄なる真実よ、大安楽(大慈大悲)よ、不滅の実相よ、金剛不壊心(不生の仏心)によって開かれん。
法圓寺版般若理趣経_ページ_22.jpg
【経解釈】
 時に世尊ビルシャナ如来は大楽(大慈悲)の世界に気づかせるべく、遍照の徳を輝かせ、真如の生き方を示された。それは、寂静にして分別を離れ、本不生のまま「一切法清浄の世界」を見開く、般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)である。
 真如は、金剛そのものである。何故ならば、本不生心は、誘惑にも迫害にも毀損つくことはない。その心は金剛のように堅固であって、大誓願を貫く。
 真如は、滅びぬ珠玉(義)の本不生心そのものである。何故ならば本不生心は、魂の奥に秘められた宝珠であり、この不滅の宝である秘められた宝珠が、まさに、「不生の仏心」であり、世界を宝土と化していくものであるからである。
 真如は、現実の事象そのものの実相(法)にある。すなわち自然法爾(あるがまま)である。何故ならば、本不生心は明澄であり、事物の真相はあるがままにあるからである。
 真如は、自他一如のすべてのものの生きざま(一切業)そのものにある。何故ならば、本不生心のすべての働きは偉大な菩提心の働きであり、自他分別の断片的な狭猥な心を超えて、すべての生きもの、そのままに、自ずから世界を浄化する自浄作用であるからだ。
 「不生の仏心」である全き完成を探求する求道者、金剛手よ。大楽(大慈悲)の世界を体し、「一切法清浄の世界」とともにあるならば、この真如である金剛の義と法と一切業を成就する四種成就する如来の生きざまを響かせることになるのだ。たとえ、汝が住む世界に煩悩の嵐が吹きすさぼうとも、また、底しれぬ不安と恐怖の闇黒に陥ろうとも、それらに怯むことなく、直面し、四種の徳そのものであるならば、必ずや、自他のすべての繋縛を解き放ち、全てのものが輝かしい自身の光りとなり、真如が速やかに顕われるのである。
 時に世尊ビルシャナ如来はこのようにお説きになられるとともに、真如は「すべてのものが成就する」ものであることを示され、大悲の心を胸に秘め、本不生を貫く智拳印を示し、すべての世界の究極の真理は、平等に具わる不生の仏心であることを説き示され、その真髄のヒビキ(創発波調)である瓦アークの真言を響かせ給う。瓦 
法圓寺版般若理趣経_ページ_27.jpg
                
【経解釈】
 時に世尊は、せまい自我心に凝り固まり、教化し難いものに対し、「自我を滅し、本不生の目覚めによって、欲望を正しく導かれるブッダの御心」を示された。それはまた、この世のすべてのものは正邪善悪の相対的世界を超えて、根源の真理を創造している本不生の般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)であることを示された。
 
 いわゆる貪欲などは、「自我に条件づけられた欲望の所産」であるが、自我の条件付けに「気づけ」ば、棄てるまでもなく、貪欲は消滅し、本来の本不生が顕わになる。それは、実に明澄で天真爛漫なものである。我欲に条件付けられた貪欲とは全く異なる。したがって、心の明澄性に気づくならば、貪欲の瞋は消失し、我欲を打破する本不生の清らかな瞋となって、欺瞞性そのものを打ち砕く。
 瞋がそのようであれば、それより発展して生ずる愚痴もまた消え、また、いかなる矛盾をも晴らす清らかな働きとなるのだ。このようにして、むさぼりの心、いかりの心、愚痴の心という働きは自我に基づけば、壊滅に導く所行となるが、「不生の仏心」である、あるがままの本不生に基づくならば、これらの心は、破滅をもたらす悪行を打ち砕き、偽りを偽りと観じ、偽りの中に真実を見いだし、真実の中に偽りを見いだすという、全く清らかなる働きとなる。その欺瞞を打破する働きこそ、この世界に変革をもたらすものである。このように、自我を滅し、清らかな本不生心を顕わにするならば、世界を創造的に変革する清らかな力となる。何故ならば、本不生は刻々にいまここに円満な本不生心を形成し、刻々に消失しつつ新たに創造す働きであり、停滞させようとする自我の虚妄性すなわち五蘊における執着とは全く異なるものであるからだ。
 そこには、迷いとして退けねばならぬものはなく、悟りとして求めなければならぬものもない。すべては明澄な刻々の行為があるだけである。そこでは、厭われた欲望は消え、一転して、限りない本不生心の全き完成となり、狭い自我を打ち砕き、自我による愚痴の汚辱を払拭し、すべてを浄化せずにはおかない変革をもたらす。それこそが、まさに、般若波羅蜜多の働きそのものなのである。
 
 求道者よ。限りない探求者である金剛手よ。若しこの欲望の正しいヒビキ(創発波調)をよく見極め、実践していくならば、たとえ欺瞞に満ちた欲望を撲滅することがあっても、そのことで地獄等の闇黒の世界に堕ちることを問われることはない。何故ならば、撲滅されるものは虚妄の欺瞞性であり、彼は、そのことで正しい求道者としての自覚が起こり、自他ともども本不生の無上の悟りに目覚めるからである。
 時に金剛手は、欲望を正しく導くヒビキ(創発波調)を、重ねて明らかに教示しようとして、内には慈悲の心を秘め、豊かな本不生心の形成を念じ、表には欺瞞に対峙する忿怒の形相で、狭い自我心の働きをあるがままに直視された。
 竃、せまい自我心よ、厳しく自己を凝視して、欺瞞性から解き放たれよ!
法圓寺版般若理趣経_ページ_31.jpg
【経解釈】
 時に世尊は、「不生の仏心」を明澄な心に導き、豊かな心に目覚めさせる自性清浄法性如来のみ心となり、明澄な心で、すべてのものを純粋(ありのまま)にとらえ、真実の姿を見開きし、この世の深い真理を体して、新たな生命を育む般若のヒビキ(創発波調)を示された。
 いわゆる世間では欲望などは、心を乱し、破滅に導くいまわしいものと退ける。しかし欲望の我欲を調伏して、本不生を静かに尋ねてみれば、それは純粋な生命のあらわれであり、「不生の仏心」を探求する心の働きそのものとなる。 
 欲望の本不生がそのようなものであるならば、心が充たされず生ずる瞋も、また、いまわしいものと斥けるまえに、充たされざる念いそのものを注視しなければならない。何故かといえば、せっかく自己の探求を願い努力しても、その実現が阻まれて、挫折せざるを得ないならば、人は誰しも、自分のふがいなさに瞋りをおぼえ、その瞋はいつしか激しく爆発する。が、その屈折した瞋の心を凝視するならば、明澄な心が自ずと現れ、物事のそもそもの本質を見極める。そして、さらに、その本質そのものを偽る心の欺瞞性に対する瞋となって、真実の道を切り開こうとする力となるのである。
 世間では、欲望に染まった心の垢を厭い棄て、罪業を忌みきらう。それは、自他に苦悩をもたらすがゆえである。 しかし、明澄な心にあるものたちは、染汚の社会をあるがままに凝視し、その苦悩の本質を理解し、社会の混乱の原因を見据え、これらを浄化し、湧き出る本心が行動となって、「不生の仏心」による創造の聖い働きをなしていく。
 世間では、現実世界を見ていくうちに、時の流れを経るほどに、自己の視野に経験を蓄積し、思念を重ねあげていく。だが、それがため、人は、それぞれのせまい我見による自縄自縛に陥り、いつしか、ブッダの本心から遠ざかっている。
 しかし、世界の本源はもとより浄穢の差別はない。
自我我欲の妄見に気づきさえすれば、それは離れ、本来の明澄な新たな心によって、真実の世界は自ずから開かれる。
 世間の諸々の知識は、本不生からみれば、所詮、概念であり、それゆえ虚妄なものといわれる。
 この五蘊にとらわれた我見の虚妄によって世界を見ることは、実相を観ることとは異なる。このことに気づかなければならない。虚妄による欺瞞性に気づき、常に新たな、明澄なる心であれば、自ずと、錯誤無く、あるがままを正しく見ることはできる。我見を離れ、すべての虚妄なる知識が止むとき、そこにこそ、本不生の般若波羅蜜多が顕れてくるのである。
 ゆえに、般若波羅蜜多の働きは清浄で、すべての欺瞞性を見抜き、誤りを正していく、根源の智恵である。
 常に「不生の仏心」の完成を願う求道者金剛手よ。明澄な心に導くヒビキ(創発波調)を心に体し、自己をあるがままに観察し、とらわれなく、素直で、清らかな心であれば、たとえ貪欲にまとわりつかれ、瞋や愚痴にまみれ、濁世の闇がおおいかぶさろうとも、それらの諸悪に染まることない。ただひたすら「不生の仏心」でいて、創造の道を刻々に邁進し、穢れた世界を浄化していくのである。 あたかもあの蓮華の花が汚泥に染まることなく、美しい花を咲かせるように、明澄な心を持って、逆境にを切り開き、本来の心で生きていけることを本気で見つめなさい。
 
 時に世尊の勝れたヒビキ(創発波調)を心に体した観自在菩薩は、重ねてこの明澄な心に導くヒビキ(創発波調)を示そうとして大悲の心を胸に秘め、眠る心に呼びかけられた。明澄な心であればこそ、濁世の闇を照らし出し、真実の道を切り拓き、不生の仏心ひとりひとりのかけがえのない唯一無二の人生を切り開けるのだと。活 のヒビキ(創発波調)を顕された”
 明澄な心よ開け、世界も自己も清浄となれよかし
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【経解釈】
 時に世尊は「不生の仏心」をもとに、様々な欲望に支配され腐敗することのない健全な心を育成しようとして、三界主如来の心を示された。それは心の垣根となる分断性を離れ、本不生である豊かな心を育み、常に新たな創造的生命活動をもたらす、本不生の滅びぬ財宝である般若波羅蜜多の布施のヒビキ(創発波調)を示された。
 それは次の四つの布施の活動である。
 その第一は灌頂施というものは、すべてのいのちは、本不生から滴る落ちる仏心をちょうだいしているがゆえに、すべてのいきものは、唯一無二のいのちのあらわれであり、その活動である。
 とかく、自我は他者と比較、分離し、目先の利害に眩み、他者に依存し、我見の苦悩の中で懊悩する。狭い我見は、やがて、さらなる対立と孤独の溝を深め、互いに住みにくい世の中にする。このような我見のせまさを自覚し、本不生の広さに眼を開くなら、心は明澄となり、生死流転の苦悩の虚妄性すら離れ、苦悩に流されることもなく、真実の自己である「不生の仏心」にて、唯一無二の天真爛漫な活動を行うことができる。このような活動を灌頂施というのである。
 第二の義利施というものは、すべてのものは世間の義利すなわち、よい宝物が得られれば、心は潤い安らぎを覚える。このような財宝を互いに与えるならば、喜びの心をもって迎えられ、心はお互いに融け合うこともあろう。しかし、世間の財宝は失われる性質のものだ。
 このような虚妄の財宝ではない、汲めども尽きせぬ本不生の財宝(本源)というものがある。それは「不生の仏心」の奥にある明澄なる慈悲である。この慈悲に目覚めるならば、すべての生きとし生けるものは、深い真如の導きのもとに、創造的ないのちとして、本来、光り輝くものであることを覚る。この明澄な心こそ、無限の宝性を見いだし、エネルギーとなって、ひとりびとりの、真に自由な躍動を促進していくものである。これを義利施という。
 第三の法施というのは、真如の生に目覚めた本不生のヒビキ(創発波調)、すなわち、法のヒビキ(創発波調)にこそこの世の本然の姿があり、この世はすべて、ひとも自然もそれぞれに本不生を秘めた天真爛漫な法のヒビキ(創発波調)であり、この大慈大悲のなかで「生かされ、生きている」ものである。そこでは一切の対立や、差別の心は消え、慈しみに満ちた献身的な愛の活動が、建設的で躍動する豊かな社会であることを悟らしむ。これを法施という。
 第四の資生施というものは、「不生の仏心」による糧が与えられ、身心ともに安らぎが得られるということである。「不生の仏心」の糧を施すことは、かけがえのない「いのち」を生かす最上の徳である。なぜなら、慈愛による糧は、乾いた心に潤いをもたらし、より豊かな人生を生をみだす。というもの。慈愛に満ちたこころの前では、かの、我欲は消え去り、無限の自由が得られて、羽ばたけるのである。 このような慈愛の徳行をもって、すべてのものを慈しみ、自他ともどもに無上の喜びをもって、躍動する社会、互いに天真爛漫な大慈大悲の「不生の仏心」を響かせる世界を築く。これを資生施という。
 時に世尊のこの妙なるヒビキ(創発波調)を体する虚空蔵菩薩は、重ねてこの明澄な心が真実の自己に目覚めさせ、慈愛の心を育んでいく偉大な財宝であることを示された。阿字本不生から刻々と生み出される唯一無二のいのちの輝きを絆とし、その勝れたあらゆるもののいのちの響きに共鳴し、「不生の仏心」の奥に眠る宝性に目覚め、真如創造の世界を建設していくものである。
 謄
 あらゆる生きとし生けるものよ。本不生から汲めども尽きせぬ真如の財宝を刻々にいただいて、無上の喜びとともに、唯一無二のいのちを響きかせ、互いに、新たに創造社会の豊かなハーモニーを奏でよう。
法圓寺版般若理趣経_ページ_38.jpg
【経解釈】
 時に世尊は身と口と意のすべての働きが、創造的生命活動である智印如来の心を示された。それは我欲にとらわれた迷えるものが、本不生に目覚め、本来の自己の探求と健全な社会の建設と輝かしい世界を創造していく般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)をである。
 一切如来の堅固にして確信に満ちた生き方を常に体するならば、行動はそのまま一切如来の真実の行動となる。 何故ならば、一切如来の身体となって生きるものは、虚妄なる我見を離れ、怠惰な心は退き、激情の嵐の中にあっても怯むことなく、誘惑に流されず、毅然として自立し、独り立つものとして、自らを照らし、社会の闇をくまなく晴らしていくものであるからだ。
 一切如来の語られる真実のヒビキ(創発波調)を響かせるものは、その大慈大悲の響き共鳴させ、明るく清らかな心の通う社会は自ずと創られよう。何故ならば、いずれのものも虚妄を離れ、真実を語るとき、そのヒビキ(創発波調)は澄みわたり、誠実な有りようとなって、ひとりびとりの「不生の仏心」を動かし、すべてのものが円満に調和されていくからだ。
 一切如来の大悲の心を常に体するならば、如来の心に包まれて、無二平等の温かい社会が創られる。何故なら、大悲の心は虚妄なるせまい自我をうち破り、全ての「不生の仏心」たるものとして包含し、互いの信頼と敬愛の心で満たすからだ。
 一切如来の金剛不壊の大智の心を常に体するならば、身口意の働きはそのまま本不生の働きとなって、無上の幸せは得られよう。何故ならば金剛の大智に目覚めた行動は、常に虚妄なるせまい自我の牙城にとらわれず、それらを超えた本不生とともに、刻々の探求と革新の生を創造する。たとえ、人生の真実に目覚め得ぬ迷いがあっても、この生き様の響きが正しい指針となり、ともどもに堅実な道を歩む個々の「不生の仏心」として親和させていくからだ。
 常に自己の探求と、住みよい社会を建設する求道者金剛手よ。この般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)を、心に体し、素直に精進していくならば、たとえ、いま、ここが、欺瞞に満ちた社会であろうとも、また、束縛と、苦悩に喘ぐばかりであろうとも、身口意のすべての本不生の行動をもって、輝かしい真如の世界を創造し、心の通いあう、和かな社会を築いていけるのである。
 時に世尊が示された般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)を心に体した金剛拳菩薩は、重ねて正しい行いに導く阿字本不生を響かせて、大悲の心と、確信に満ちた行動をもって、あらゆるものに呼びかけられた。
 すべてのものよ。自ら道を照らすものよ、行動し、社会を浄化し、完成せよ。そして、完  の字を示された。正しい智恵で不動の心を確立し、すべてを調和に導く聖い如来の働きとなれよかし。
法圓寺版般若理趣経_ページ_42.jpg【経解釈】
 時に世尊は本不生の慧眼をもって一切の戯論を打ち破り、世界の本然の姿を見開く如来の心を示された。それは欺瞞性をうち破り、根源に眼を開き、真実の世界を照見していく般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)そのものなのである。
 
 とかく、この世界に永遠なる常住不変のものを見つけたいと願う。しかし、心静かに観察すれば、世界も万物も刻々に変動しており、常住不変のものは無いことに気づかれよう。何故ならばすべてのものは空であり、「先験なる本不生より経過し消失する実相は決して止まることのないものであり、実体として止まっているものはなく、それゆえ、実体があるという見解は虚妄に過ぎない」とブッダは指摘された。この真理に気づいたならば、いかに確信に満ちた自己の見解といえども、せまい視野に条件付けられた一つの観方でしかないことを知らなければならない。眼にうつる万象は、あらゆる知識の処縁ではあるが、静かに実相を観察してみれば、実体化して見えるそれは無相の大海に生じた一つの波のようなものであり、また、よどみに浮かぶ泡沫のようなものである。顕れては消え、消えては顕れる見かけ上の姿にすぎない。
 ブッダ親説によれば、(われわれは)眼にうつる外界のものをあたかも外界に実体があるように感受しているが、それは五蘊によるもので、その五蘊の虚像を外界に投影し、外界に実体があるとみているだけで、阿字本不生の実相は、「外界に、先験なる本不生より停滞なく、今の変動が経過し、消失し、全き新しき変動として、刻々に創造されつつ、相続されている」ものである。
 このように、刻々に生滅変動しているものを五蘊は感受しても、五蘊の記憶に留めなければ、(われわれは)外界の変動を捉えられない。すなわち、先験より変動する刻々の情報を五蘊の情報に変換し、それをもって外界に投影することで世界の存在を認識している。だが、外界には、その投影された実体としてそこにあるのではない。そこに展開されているのは「阿字本不生という先験より停滞なく、今に経過し、消失する、全き新しき顕れとして、刻々に留まることなく創造され、相続されている事象」である。先験なる本不生は五蘊を超えており、五蘊で把握されたものは切り取られた虚像でしかない。それを実体と視て、あたかも、外界に実体が変化変滅していると観ているが、この見方は欺瞞に陥っている。このことを「虚妄の法」とブッダは指摘された。故に、実体でないものを実体視することの欺瞞性に気づき、その虚妄を離れることで、本不生とともにあることができるのである。
 五蘊には、いまここに刻々と停滞なく生滅するものを映像のように蓄積し、その留められた映像をめくるようにして、あたかも実物が動いていると判断し、それに好悪を加味し、ひいては執着を起こすという落とし穴が潜む。実体でないものを実体としてみているからこそ、そこに貪り、瞋り、痴かさなどの諸々の煩悩が生まれる。虚妄である世界を実体視してそれにとらわれる愚かさを指摘された。同様に観念上のビジョンに固着することは阿字本不生の瑜伽ではなく、虚妄なる自己欺瞞にすぎないことを指摘された。
 このような空の実相に気づくならば、かたくなな自己の知識にこだわり、本不生の真実に心を閉ざすことはなくなる。
 ブッダ親説を繰り返すのは、理趣経をこの重大なるブッダ親説によって紐解くものをこれまで知らないからである。
 宇宙のすべてのいとなみは、本不生の摂理であり、先験より今に経過し、消失するがゆえに滞留なく、刻々に新たな源流の顕れとして躍動している。如来性の三身はすべてこの「空」を実相としているものである。 
 天地自然の偉大な働きは、局所的我欲を超えた大いなる遍満性の中からもたらされる瑜伽(加持感応による互換重合)の現象であるからだ。局所的個々の「不生の仏心」は、常に全く新しい完全な創造のいとなみとして、遍満なる宇宙と加持感応同交し、刻々に変動し、出現している。これは森羅万象が外界に留まる実体の変動ではないことでもある。先験なる本不生から絶え間なくもたらされた変動である。この実相を空といい、阿字本不生というのである。
 この真如の法に気づけば、断片化した唯物や唯心などの片寄った識見や論議を去り、大慈大悲の真如創造の全き新たな源泉を汲むことができるであろう。
 現実の世界も、眼にうつる世界も、すべてのいとなみも、清らかな本不生の心をもって、あるがままに観るならば、自己をとりまくすべてのものは、本来、光り輝く宝土であることに気づく。何故ならば世界は本来、清浄であり、それを浄穢と観るのは自我の狭い識見である断片化した分別(見解)にはめられているからだ。この真理に目覚めたものこそ、般若波羅蜜多を宇宙に響かせるものなのである。
 時に世尊の示された般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)を心に体し、清らかな赤心(童心)を持つ文殊菩薩は、重ねて此の真実の世界を見出すヒビキ(創発波調)を明かそうとして、天真爛漫な大悲の心で、虚妄による欺瞞性を打ち砕き、慧剣を振るい、すべての執着を払い、さらに、如来に依存する欺瞞さえも看破する勇猛心を示した。
  姦
法圓寺版般若理趣経_ページ_45.jpg
【経解釈】
 時に世尊は全ての「不生の仏心」は金胎両部が加持感応(互換重合)する八輻輪、金胎両部不二なる正反重合の三角四面体(三角火輪)が大転法輪することにより顕現するという瑜伽清浄の本然の姿を開顕された。
 「不生の仏心」である全てのものが、その如来の心をかいま見るとき、直ちに、全ての「不生の仏心」を如来の世界に転入させる聖い転法輪「金胎両部不二なる正反重合の三角火輪(三角四面体=マカバ)」のみわざを示された。
 それはこの世のすべてのものに、今こそ、悟りの世界に趣く機縁であることを知らせ、発心である「金胎両部不二なる正反重合の三角火輪(三角四面体=マカバ)」が大転法輪すれば、忽ち仏果を成就していくという般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)を示された。
 せまい自己を破り、常に心を大きく開いて堅実な生を歩むものたちは、一切如来の心を心として生きていく。何故ならばそれらのものたちは金剛の世界に生まれており、すべての働きは堅実な如来の働きとなるからだ。
 せまい自己を克服して、魂の奥に秘められた不滅の財宝や勾玉(本不生心)を見出し、豊かな生を歩むものたちは、大菩薩の心を心として生きている。何故ならばそれらの「不生の仏心」は宝部といわれる新たなる創造の世界に刻々に出現し、本不生の力を持って大調和を展開させるからだ。
 明澄な心に帰り、世界の真実を見るならば、常に寂静の心で生きている。何故ならば生死流転の荒波にあろうとも、常に流転の波にのまれず、真如の不退転の心でいるからだ。
 すべての行いにおいて、無私無欲の大慈大悲の誓願、「金胎両部不二なる正反重合の三角火輪(三角四面体=マカバ)」の大転法輪は、常に偉大な大慈大悲の光りにほかならない。大慈大悲の光りは、我執を離れ、すべてのものと加持感応(互換重合)同交し、融和する、正反重合の三角火輪(三角四面体=マカバ)の大転法輪である。
 時に世尊のこの勝れたヒビキ(創発波調)を心に体した纔發心轉法輪大菩薩は、生きとし生けるものが真の自己に目覚める菩提心を発こすや否や、直ちに如来の世界に引き入れようと、大悲の心を胸に秘め、金剛の世界に「金胎両部不二なる正反重合の三角火輪(三角四面体=マカバ)」の大転法輪の真髄轄を示された。
 轄 「金胎両部不二なる正反重合の三角火輪(三角四面体=マカバ)」の大転法輪により せまい心を転じて、偉大なる心と同化し、根源の美しい心を開けよかし!
法圓寺版般若理趣経_ページ_48.jpg
【経解釈】
 時に世尊は、「不生の仏心」が清らかな本然の心に導き、そこにあらゆる「不生の仏心」珠玉の世界が開かれることを示された。あらゆるものの本性が、自己のよりよい探求と、社会の浄化に励む「みわざ」となり、これこそ般若のヒビキ(創発波調)が成就する無上の道であることを示された。
 遇い難く、得難い自己の生命に報恩の誠を捧げ、菩提心を発こして、限りなく探求の道を歩むことは、一切如来の広大な供養となる。何故ならば一切如来の大慈大悲の誓願は、長夜の夢を打ち破り、本不生の生命に目覚めさせ、堅実な生の道を歩まんとすることにほかならないからだ。
 生死流転の苦海の中に漂流するあらゆるものに指針を与え、本不生の真実に目覚めさせ、寄せては返す苦悩の波を乗超えて、いまここに創発するものとともにあることは、一切如来の広大な供養となる。
 何故ならば、一切如来の大慈悲大の誓願は、苦悩の世界を遠離して、光明の中に無限の宝を照らし出し、すべての誓願を成就させるからだ。
 大いなる経えのヒビキ(創発波調)を深く敬い、探求の糧とし、理解し、その真実のヒビキ(創発波調)を実践するならば、一切如来の広大な供養のはたらきとなる。 何故ならば、一切如来の大慈大悲の誓願は、大乗の深尽のヒビキ(創発波調)をもって、あらゆるものの根源のヒビキ(創発波調)と共振し、本不生の真理の世界に生きるからである。
 真実を見開きし、自己を確立し、最上の智恵である般若波羅蜜多を体し、轟き、あらゆるものと共振し、調和のハーモニーを響かせるならば、それが一切如来の広大な供養のこころである。
 何故ならば、一切如来の大慈大悲の誓願は、あらゆる教化の業の大精進をもって苦を除き、「不生の仏心」に、狭い自我を克服させ、偉大な本不生心を創造して、無限の自由世界を建設しようとするヒビキ(創発波調)であるからだ。
 時に世尊のヒビキ(創発波調)、供養の道を歩む虚空庫菩薩は、大悲の心を胸に秘め、豊かな心を育んで、一切如来の心と交流し、あらゆる願いを成就していく真髄のヒビキ(創発波調)を示された。それは本然の心に導く喝のヒビキ(創発波調)なのである。
 喝 
本然の心よ湧き出よ、本不生の真理、不滅の霊宝となれよかし!。
法圓寺版般若理趣経_ページ_52.jpg
【経解釈】
 時に、世尊は、とかく、迷い、怠惰な心に流されがちであるものに対し、自己の本道に徹し、如来の大慈大悲の誓願を成就する道を示された。
 それは愛欲に生きようとする力を、本不生の本来の創造する力に変革する智恵の真髄である。すなわち、あらゆる欺瞞性を打ち砕く、忿怒の如き般若波羅蜜多を響かせ給うた。
 すべてのいのちは、本来、本不生である。それ故、如来からくる本不生の働きは、絶えず湧きあがる泡の如き虚妄なる欲望の本質を見抜き、欺瞞を焼き尽くす怒りの炎となって、自らに厳しく、変革の源である金胎両部不二、すなわち、正反重合の三角火輪(三角四面体)を大転法輪させ、偉大なる創造の力を発揮し、如来の心たる金剛の本心を実現していく。
 すべての「不生の仏心」は、本来、清浄にして、迷いはない。それ故、本不生の働きは、傲慢不遜な欺瞞性を見抜き、聖い怒りの炎となって、自らに厳しく、変革の源である両部不二、すなわち、正反重合の三角火輪(三角四面体)を大転法輪させ、偉大なる創造の力を発揮し、豊かな心を育む。
 すべてに「不生の仏心」として出現しているを本不生は、濁世の波にもまれようとも、清い心で生き抜く力をもつ。それ故、本不生の働きは、邪な愛欲に対し、欺瞞性に対する怒りの炎となって、自らに厳しく、変革の源である両部不二、すなわち、正反重合の三角火輪(三角四面体)を大転法輪させ、偉大なる創造の力を発揮し、「不生の仏心」そのものが清浄なる智恵に導く。
 すべてのものの本不生は、本来、金剛の堅実なる智恵の働きにあり、すべての不浄を浄化していく。それ故、本不生の働きは、不正で邪悪な欺瞞性に対する怒りの炎となって、自らに厳しく、変革の源である両部不二、すなわち、正反重合の三角火輪(三角四面体)を大転法輪させ、偉大なる創造の力を発揮し、穢れたものを焼き尽くすがごとく、清浄な国土を建設し、堅実な生の基盤を打ちたてていく。
 何故ならば、すべてのものは、とかく、狭い自我の愛欲の砦に立てこもり、自我を主張し、他を卑下し、対立闘争の苦海の荒波をまき起こすが、本不生で活きる力は、自我我欲の変革を促し、その源である両部不二、すなわち、正反重合の三角火輪(三角四面体)を大転法輪する力となっていくからだ。
 時に世尊が示された欺瞞性に対する怒りの炎の如く、自らに厳しく、変革の源である両部不二、すなわち、正反重合の三角火輪(三角四面体)を大転法輪させ、偉大なる創造の力を発揮する催一切魔大菩薩は、明澄な心より生じた忿怒の智恵の真髄を、あまねく響かせ、大悲の心を胸に秘めて怒りの如き凄まじい形相で、湧き出る迷いの雲をはらうべく、一切如来に、ただ頼り、利用しようとする心の奥の欺瞞さえも見抜き、その元となる執着心を払いきって、空なる本質の真如を打ち立てる。
 苦悩の只中にあるものが我欲を克服し、天真爛漫たる大笑心となり、欺瞞に対する怒りの炎となって、変革の源である両部不二、すなわち、正反重合の三角火輪(三角四面体)を大転法輪させ、偉大なる創造の力を発揮された。
述 大空よ、すべての勝利よ、大歓喜よ。
法圓寺版般若理趣経_ページ_56.jpg
【経解釈】
 時に世尊は、これまでの般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)に調和するならば、無量の功徳が現れ、刻々と光り輝く真理の世界を打ち建てる、一切平等建立如来そのものであることを示された。それは衆生も、如来も、あるがままの生活の中で、無上の勝れた生き方をする。ここに、般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)をに調和する真髄があることを示された。
 
 この世界はそれぞれが自己の立場を主張することで愛憎の渦に巻き込まれやすい。若し、般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)に調和するならば、もとより此岸を離れて彼岸はなく、すべては浄穢を超えた平等一如のものである。般若のヒビキ(創発波調)は、せまい自我を超え、正邪善悪の分別を超えているので、こうしたものには全く動じない。本不生の金剛の如き意志が沸々と湧き出でているのである。この般若波羅蜜多の変革のヒビキ(創発波調)が、あらゆる「不生の仏心」をして確実な生を歩ませる。
 この生は苦悩に溢れているが、若し、般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)に調和するならば、この苦悩の世界に、無上の宝庫を見出す。それ故、般若波羅蜜多の働きはすべての中に神秘の宝を見出し、深い心を育み、光り輝く宝土を建設するのだ。
 わが見る世界は幻の如く、また陽炎の如き虚妄のものではあるが、若し、般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)に調和するならばを、この世界の事象の実相を離れて真実はないことを自覚する。それ故、般若波羅蜜多の働きは清浄な原初の本不生に立ち帰り、虚妄なる幻に囚われることなく、惑わされることなく、真理の世界を切り開いていくのである。
 わが生命よりほとばしる行動は、時に、ひとりよがりに突っ走り、問題を起こすものだが、若し般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)に調和するならば、生命の輝きあふれる行動となり、何事も圓満に成就する。それ故、般若波羅蜜多の働きは大精進をもって初心を貫き、偉大な自己を実現し、大慈大悲の誓願を成就させるのである。
 時に、この金剛平等のヒビキ(創発波調)を体得した金剛手は、一切如来と菩薩の心と一つに融け合う般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)の真髄、一切不空三昧耶を説かれた。
 轄 せまい自我から解放されよ。
法圓寺版般若理趣経_ページ_59.jpg
【経解釈】
 時に世尊は、「不生の仏心」が平等のヒビキ(創発波調)に調和し、せまい自我の砦を砕いた時、すべては清い遍照のみ光りの中に、清らかな本心の真理の光りとなり、全ての生きとし生けるものが、荘厳なる浄土を生みだし、如来と共振し、般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)となって、加持感応(互換重合)することを示された。
 この世のすべての「不生の仏心」は内奥に如来の心を秘めている。それ故、般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)に加持感応(互換重合)するものは、かの普賢菩薩が誘惑と迫害をものともせず、本不生を求めて偉大な世界を実現するが如く、菩提心をふるい起こし、如来の世界を実現し、本不生の生命を生きぬくのである。
 この世のすべての「不生の仏心」は広大無限な空に生きる金剛の心を秘めている。それ故、般若蜜多のヒビキ(創発波調)に加持感応(互換重合)するものは、如来の金剛誓水の灌頂を得て、真実に目覚め、生命に満ちた輝かしい宝土を建設していく。
 この世のすべての「不生の仏心」は、本来、不生心をもって、かたくなな妄想心を変革する。それ故、般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)に加持感応(互換重合)するものは、観自在菩薩が清浄心を堅持して偉大な生命を慈しむが如く、明澄にして無垢な心を以てあらゆる真如の妙音を響かせて、刻々に新たな世界を創造していくのである。
 この世のすべての「不生の仏心」は、みな自己欺瞞を打破し、真実を顕していく勝れた力を秘めている。それ故、般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)に加持感応(互換重合)するものは、自己の利害や打算を離れ、世間の評価に振り回されず、確実に如来の業を実践していく。
 
 この如来のヒビキ(創発波調)を聞いたとき、欲望の嵐がやんで、真如の微風に心地よく、一切の悩みも束縛も、壊滅をもたらす自我の活動も止み、すべてのものが無限の慈愛に包まれ、清く貴い創造の世界に生かされていることを自覚し、心を開く。ブッダの大悲は、たとえ、我欲に囚われたものであろうとも、その「不生の仏心」を見捨て給わず、なおも、創造的な生命を育むよう慈しまれる。それ故、あらゆるもには「不生の仏心」の金剛の般若波羅蜜多と本不生が響いているのである。
 おお、なんという力強さであろうか。この喜びをおおらかに歌い、響かそうではないか!
 簸 
わが本来の大生命よ来たれ!塵垢の霧よ去れ!、宝土なる自立自在の世界よ立ち現れよ!
法圓寺版般若理趣経_ページ_56.jpg
【経解釈】
その時にマハーカーラ(大黒天)を始め誉属の諸母天は、かたくななせまい心であり、自己の利益のみを追求していたので、常に闘争が絶えず、闇黒の滅亡の渕に引き込まれていたが、世尊の偉大なヒビキ(創発波調)により、内奥の真実心が顕わになり、自らの欺瞞性を断ち切ることができた。今、わが欺瞞に満ちた穢れた心を解放し、本不生心を開き給う世尊に対し、心から敬愛し奉る。探求の道を歩み、真髄の心をもって尽くし奉る。
帳  畏敬をもって、せまい自己を超え、偉大な心となれ。 
法圓寺版般若理趣経_ページ_65.jpg
 その時 マドキャラ(末度迦羅天)の名をもつ三兄弟は、生々流転の大自然の営みの中にあって、輪廻の渦に巻き込まれていたが、世尊の偉大な教化のヒビキ(創発波調)によって、流転の真っただ中から、不滅の真理を観ることができた。そして、
 おお!なんと!この生死の世界に、仏陀の本不生の「不生の仏心」が満ち溢れていることか!と感嘆の声をあげた。
 泗 偉大な喜びよ!
法圓寺版般若理趣経_ページ_66.jpg
 その時、四姉妹女天は歓楽の街で人々をもてなしていたが、世尊の偉大な教化のヒビキ(創発波調)にあって、真の喜びに触れ、これまでの、欺瞞に満ちた興ざめな快楽の虚しさを知って、常楽我浄の穏やかなる涅槃の境地を悟り、この喜びを以て、心底、生きとし生けるものに尽くし奉ると決心した。
 夙 
法圓寺版般若理趣経_ページ_67.jpg
【経解釈】
 本来の清らかな心にすべてが包まれており、あらゆるものは、みな、時空の枠を超えた如来の心の現れである。
 その時、世尊は無量無辺の究竟を示す如来として、すべての「不生の仏心」の中に本不生の真理を現わし、無限の宝土と化していく般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)を持って世界を顕された。
 般若波羅蜜多は無量であるが故に、このヒビキ(創発波調)を体解するものは、時の流れを超えて、心は深く豊かな本不生のままとなる。 それは堅実不動の如来として生きることで、ここに本不生の生命を現じ、宝性を生じ、清らかな慈愛を生じ、創造的な働きをする。
 般若波羅蜜多は無辺であるが故に、このヒビキ(創発波調)を体解するものは、狭隘な心が消えて、真如としてすべてを包みこむ。 それは本不生なるが故に、不生不滅の如来となって生きており、いま、ここ、こそ、宇宙のすべてが輝く宝土であり、本不生から真如が響きわたる、新生創発する場であった。
 般若波羅蜜多は一性(全一)なるが故に、このヒビキ(創発波調)を体解するものは、この世のすべてのものの根源の姿、すなわち、本不生の全体性を観察する。それは恵眼をもった如来の観察であり、分断の迷妄に染まらぬ心で、真如の世界を建設していくのである。
 般若波羅蜜多は究竟であるが故に、このヒビキ(創発波調)を体解するものは、常に本不生を以て探求する。 それは本不生が顕現している如来の法身であり、働きであって、せまい自我を越えた、常に新たなる創造に満ちた生命と、豊かな心と、明澄な慈愛と、確実な行動となって、光明に溢れた無碍自在な世界を創造し続けている。
 
 般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)を体する勝れたもの、金剛手よ、この深い心、広い世界に導く般若理趣のヒビキ(創発波調)を聞いて、このヒビキ(創発波調)に目覚め、このヒビキ(創発波調)を響かせ、調和していくことが、仏菩薩の全き新生創造の勝れた行いであり、究極の本不生が完成する如来のヒビキ(創発波調)であるのだ。
法圓寺版般若理趣経_ページ_71.jpg
【経解釈】
 般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)を響かせ、世界の究竟の真実を体得すれば、心は広く開かれ、ビルシャナの心と深く感応同交する。その時一切如来の深秘の心そのものとなり、大悲の心が限りなく湧き出でて、すべてのものを本不生の真如に目覚めさせる偉大な力となる。それは慈愛の働きであり、正反重合・自他一如の本不生の働きだ。これこそが、時空を越えて、「不生の仏心」を顕わにする本不生のヒビキ(創発波調)にほかならない。この般若波羅蜜多の深秘である阿字本不生のヒビキ(創発波調)は、あらゆるものを新たに創造させる源泉であり、大楽とはまさにこの源泉である本不生のヒビキ(創発波調)をいう。これを享受できるのは天真爛漫な般若波羅蜜多心すなわち本不生心をおいて他にない。
 菩薩摩訶薩は、真如の自然法爾に気づく遍照金剛に他ならない。彼は自己の欲望に潜む欺瞞性に気づき、自己変革を起こし、慈愛の本源に目覚めた。ゆえに、真に菩薩ボーディサットバーと呼ばれる。彼は大楽すなわち天真爛漫なる大慈大悲の喜びに満ち溢れて、刻々の生のヒビキ(創発波調)をもって、あらゆる「不生の仏心」と共鳴し、調和しながら、新たなヒビキを創造し続ける。
 菩薩摩訶薩は大楽(大慈悲)の世界を新たに創造するがゆえ、菩薩と呼ばれる。彼は一切如来の大菩提そのものである。
 菩薩摩訶薩は一切如来の大菩提そのものであるがゆえ、真の菩薩、すなわち金剛薩埵 と呼ばれる。彼は一切如来と感応同交し、狭隘な自らの我欲やあらゆる魔性の欺瞞性を打破する。
 菩薩摩訶薩は、狭隘な自我を超え、魔性の欺瞞性を見破り、無碍自在の菩薩である。彼はあらゆる苦難と快楽に腐乱した世界にありながら、それらに影響されず、根源の本不生を見据えて、全てのもののが自身の光となれるよう導く。
 菩薩摩訶薩は、本不生を以て自らの行動を律する菩薩である。彼は生死流転の苦悩に喘ぐあらゆるものの心に添い、苦悩の世界の只中にあっても、その中から、自らを照らす光となれるようあらゆるいのちを導く。そして、苦悩に喘ぐものがある限り、その苦悩と倶に、自らの生に真の幸福と安楽を見いだし、喜びを見いだすよう導く。
 この菩薩の大慈大悲が、いま、ここに、大楽(大慈悲)のヒビキとなって、天真爛漫な歓喜に満ちたハーモニーの世界が新たに創造されるのである。
法圓寺版般若理趣経_ページ_79.jpg
【経解釈】
 目覚めよ、般若理趣の真髄に。大楽(大慈悲)の世界を重ねて示そう。
 勝れたブッダ親説の恵眼を持つ求道者・菩薩は、世間の虚妄なる苦悩が尽きるまで、あらゆるものが覚醒して自身の光りとなるよう、刻々の生命をかけて導く。
 本不生の働きは、すべてのものを五蘊の虚妄性から目覚めさせ、ともどもに、いま、ここに、絶えず新たなものとして創造させる。
 貴き変革の力、湧き出でて、世間の欺瞞を喝破し、みなともに、目覚め、浄らかである。
 貪欲、妬み、愚痴の虚妄は去り、みな、般若波羅蜜多に目覚めた、新たなる、清き宝となる。
 濁れに染まることなく、色とりどりの花を開かせる、かの池の蓮華の如く、「不生の仏心」は、みな、自身の光りであり、みな麗しく慈悲に満ちた花を咲かす。
 欺瞞を破り、自己変革の誉れ高く、あらゆるものがそれぞれに、みな、自身の光りとなって光り輝やく。その生に苦悩なし。 すべてみな、心和らぎ、豊かなる、清き仏に調和して、いま、ここに、自ら、新たなる創造の無上のヒビキ(創発波調)を奏る。
 本不生を体するがゆえに金剛手と呼ばれるあらゆるいきとしいけるものよ、みなこの始原のヒビキ(創発波調)、般若理趣のヒビキ(創発波調)に調和し、また、日々、早朝、新たな目覚めのときから、刻々と、この般若理趣のヒビキ(創発波調)に調和するならば、真理の妙音は共振し、新たな「不生の仏心」のヒビキ(創発波調)となり、悦びに満ち、天真爛漫な本不生の大誓願が刻々に成就されよう。 すべてのものが、みな喜びに溢れる大楽(大慈悲)の世界、金剛界と胎蔵とが加持感応し、互換重合して、この現象界に阿字本不生の般若波羅蜜多を刻々に新たに創造すものとともに、いま、ここに、成し遂げよかし。
  轄 狭き自我よ去れ!自己欺瞞よ去れ!
 大空一如の阿字本不生。
 般若波羅蜜多に目覚めよ!。
 観自在菩薩の般若波羅蜜多である本不生こそあらゆるものの源流である。
 般若波羅蜜多、いま、ここに、新たなり。
 般若波羅蜜多、ここに、新たなる創造のヒビキ(創発波調)となっ て、大楽のハーモニーを響かせ給う。
経 解釈
 般若波羅蜜多のヒビキ(創発波調)をすべて説き畢ったとき、一切如来、及び本不生を自らのものとする求道者たちは、みなここに寄り集まり、心一つにして般若理趣のヒビキ(創発波調)を体し、本不生の真理が、「不生の仏心」の苦悩を除き、円満な心に導き、世界を浄化し、諸々の新たな創造が成就されることを讃美し、このヒビキ(創発波調)を体得し、不生の仏心に目覚めた金剛薩埵 を称讃された。
 善いかな善いかな勝れた求道者よ。
 善いかな善いかな大安楽(大慈大悲)を得た者よ。
 善いかな善いかな大乗のヒビキ(創発波調)の神髄 を捉えたものよ。
 善いかな善いかな般若の勝れた智恵を体得したものよ。
 自らの深い体験によってよくこの真理の教法を演説し給 い、金剛の叡智の輝かせて、「不生の仏心」を目覚めさ せ給うものよ。
 何れのものも、自身の光となるならば、一切の諸魔も破滅に導くことはなく、仏菩薩の最勝の阿字本不生位を得ん。
 一切如来及び求道者は、般若理趣を響かすものとともに、いま、 ここに歓喜の新たに創造の大交響曲を奏でられている。
般若理趣経
『般若心経』『般若心経秘鍵』『般若理趣経』の龍雲による意釋シリーズ
後書きにかえて
霊峰萬歳楽山に耀く本不生の曼荼羅とは
【萬歳楽山は理趣経の根本義によりて出現している普賢金剛薩埵の立体曼荼羅である。】
一 霊峰萬歳楽山の法理
1、本初佛即本不生
2、須弥山(スメール山)
3、初会金剛頂経の般若理趣経
4、般若理趣経によって、
霊峰萬歳楽山に普賢金剛薩埵すなわち普賢金剛・法身が顕現していることを知る。
5、佛跡ボロブドールの曼荼羅と霊峰萬歳楽山がいま、ここに、共振する。
6、金剛界・胎蔵界の両部不二とは両界界曼荼羅の互換重合のこと。
二 佛跡ボロブドールと共時する霊峰萬歳楽山にひびくもの
1、この宇宙の根源にして、個々の生命の基本たる、無始無終の普門本體の普賢金剛薩埵をば、普賢金剛とも、普賢法身ともと云ふ。
2、第六會の金剛頂經たる廣本の般若理趣經などでは、これを最上根本佛と云ひ、文殊説名義經などでは本初佛と称している。
3、この本初佛たる普賢金剛薩埵の性海より、大日、阿閦、寶生、彌陀、不空成就の五佛を始め、種々様々の色身を示現し、種々様々の説法をなし、種々様々の意慧を啓示する妙用である立體曼荼羅である。
4、霊峰萬歳楽山はこのこの本初佛と互換重合している。
5、この大乗仏教徒によって築かれた普賢金剛薩埵の立体曼荼羅が、具体的に建立されたものが佛跡ボロブドールの制底・塔婆・曼荼羅である。
6、霊峰萬歳楽山には、普賢金剛薩埵の立体曼荼羅のヒビキを、次元を超えて響かせている立体曼荼羅が顕現している。人造でない、即ち、大宇宙・大自然・地球自身が顕現した築きあげた不可思議曼荼羅である。さらにこの山の背後に須弥山が響いていると思われる。
7、佛跡ボロブドールには、大日如来・金剛薩埵・龍樹菩薩・龍智菩薩・金剛智三蔵・不空三蔵の付法の系譜が活きている。それは、佛跡ボロブドールが建立されたであろうとされる時期のジャワにおいて、真言付法の祖である金剛智三蔵と不空三蔵が邂逅し、真言相承がなされた。この奇縁ががいま、ここに。
8、大乗仏教徒によって築かれた普賢金剛薩埵の立体曼荼羅は、深遠な大宇宙の根源にして、個々の生命の基本たる、無始無終の普門本體の普賢金剛薩埵を示そうと築かれた立体曼荼羅である。
9、 この曼荼羅を通し、その奥に教示されているものを感受し、意識の変革を起こし、活かすべきこと。
 この曼荼羅界に入る者は、誰でもが、その真實義のヒビキを享受し、如来の導きを感受できる。 
 この理趣経の根本義における普賢金剛薩埵の立体曼荼羅が、大地所生の萬歳楽山を通しても、顕現されている。
一〇、佛跡ボロブドールが永いこと密林に埋もれ、異宗教による破壊を免れえた奇蹟は、むしろ、その真實義のヒビキなるが故の奇蹟である。
 そして、イマ、此処に、まさに、本初佛(Adi-buddha)として、須弥山と佛跡ボロブドールと萬歳楽山において互換重合する相似象共振を作動させる。
一一、しかし、萬歳楽の山頂にボロブドールのような石の建造物があるのではない。見えざるなかに築かれた曼荼羅である。故に、
霊峰である。
  
 以上のことから、萬歳楽山がこの現象界の地球上出現している潜象界の阿字本不生曼荼羅であり、須弥山と互換重合する相似象の霊峰であることを、『ブッダ親説』と『般若理趣経』の本初不生によって、導かれた。
 まさに、萬歳楽山は「理趣経の根本義による普賢金剛薩埵の立体曼荼羅そのものである。」
 このたび、『般若心経』と『般若心経秘鍵』と『般若理趣経』を一般檀信徒の方々にもお分かち申し上げたく、経典を、「原典」と「書き下し文」と「和訳」の経典としてまとめた。釈迦牟尼佛親説「本初不生」を骨子として、不肖龍雲好久の解釈文をそえたが、これまで気づかれていなかった視点である。
法坐における副読本として用意させていただいた。ご一読賜ればありがたい。           合掌
参考文献
『真言宗常用経典』
  真言宗豊山派宗務書
『理趣経の研究』
 栂尾祥雲全集Ⅴ 密教文化研究所
『弘法大師著作全集』
  勝又俊教 山喜房佛書林
『和文経典 般若理趣経』
  栂尾祥雲 密教文化研究所
『秘密経典 理趣経』
  八田幸雄 平川出版社
『評説 インド仏教哲学史』
  山口瑞鳳 岩波書店
『般若理趣経』
   伊奈霊法 横山竹洞 真言寺
『般若理趣経』
        浅井将皓 伯舟庵 隆昌堂
『日本の上古代文明と日本の物理学』  楢崎皐月 連続講演会研究予稿             江川和子
『生と覚醒のコメンタリー』
   j.クリシュナムルティ 
       大野純一訳 春秋社
『エノクの鍵』 
   j.jハータック 
     紫上はとる・小野満麿訳       ナチュラルスピリット


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空海の般若心経秘鍵 [思索]

【和文】
 般若心経秘鍵 序併せたり
          遍照金剛 撰
文殊の利剣は諸戯を絶つ
覚母の梵文は調御の師  なり
豆糸の真言を種子とす
諸教を含蔵せる陀羅尼  なり
無辺の生死、何んが能く 断つ
唯だ禅那と正思惟とのみ 有ってす
尊者の三摩は仁譲らず
我れ今讃述す、哀悲を垂 れたまえ
夫れ、仏法遥かに非ず、 心中にして、即ち近し。
真如、外に非ず、身を棄てて何にか求めん。
迷悟我れに在れば、発心すれば、即ち到る。
明暗他に非ざれば、信修すれば忽ちに証す。
哀れなる哉、哀れなる哉、長眠の子。
苦しいかな、痛しいかな、狂酔の人。
痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。
曾て医王の薬を訪らわずんば、何れの時にか大日の光 を見ん。
翳障の軽重、覚悟の遅速の若きに至っては、
機根不同にして、性欲即ち異なり。
遂使じて、二教輙を殊じて、手を金蓮の場に分ち、
五乗、くつばみを並べて、蹄を幻影の埒に踠つ。
其の解毒に随って薬を得ること、即ち別なり。
慈父、導子の方、大綱、此れに在り。
大般若波羅蜜多心経といっぱ、即ち是れ、
大般若菩薩の大心真言三摩地法門なり。
文は一紙に欠けて、行は則ち十四なり。
謂うべし、簡にして要なり。約にして深し。
五蔵の般若は、一句に嗛んで飽かず、
七宗の行果は、一行に飲んで足らず。
観在薩たは、則ち諸乗の行人を挙げ、
度苦涅槃は、則ち諸教の得楽を褰ぐ。
五蘊は、横に迷境を指し、三仏は、竪に悟心を示す。
色空と言へば、則ち普賢、頤を円融の義に解き、
不生と談ずれば、則ち文殊、顔を絶戯の観に破る。
之を識界に説けば、簡持、手を拍ち、
之を境智に泯ずれば、帰一、心を快くす。
十二因縁は、生滅を麟角に指し、
四諦の法輪は、苦空を羊車に驚かす。
況んやまた、規購の二字は、諸蔵の行果を呑み、
皮舎の両言は、顕蜜の法教を孕めり。
一一の声字は、歴劫の談にも尽きず。
一一の名実は、塵滴の仏も極めたもうこと無し。
この故に、誦持・講供すれば、則ち抜苦與楽し、
修習・思惟すれば、得道起通す。
甚深の称、誠に宜しく然るべし。
余、童を教うるの次でに、聊か綱要を摂って、かの五分を釈す。
釈家多しと雖も、未だこの幽を釣らず。
翻訳の同異、顕密の差別、並びに後に釈するが如し。
或る人問うて云く、
般若は、第二未了の教なり。何ぞ能く三顕の経を呑 まん。 
如来の説法は、一字に五乗の義を含み、一念に三蔵の法を説く。
何に況んや、一部一品、何ぞ匱しく、何ぞ無からん。
亀卦・爻蓍、万象を含んで尽くること無く、
帝網・声論、諸義を呑んで窮まらず。
難者の曰く、
もし然らば、前来の法匠、何ぞこの言を吐かざる。
答う。
聖人の薬を投ぐること、機の深浅に随い、
賢者の説黙は、時を待ち、人を待つ。
吾れ、未だ知らず、蓋し、言うべきを言わざるか、
言うまじければ言わざるか。
言うまじきを之を言えらん。失、智人、断りたまえま くのみ。
 (さらに)論難する人が質問する。
 仏説摩訶般若波羅蜜多心経といっぱ、この題額に就い て二の別有り。
 梵漢別なるが故に。
 今仏説摩訶般若波羅蜜多心経といっぱ、胡漢、雑え挙 げたり。
 説心経の三字は、漢名なり、余の九字は胡号なり。
 もし具なる梵名ならば、榊侠唆似嵯爾皮電皮宰糊唆胡 舎譜と曰うべし。
 初めの二字は、円満覚者の名、
 次の二字は、蜜蔵を開悟し、甘露を施すの称なり。
 次の二字は、大・多・勝に就いて義を立つ。
 次の二字は、常慧に約して名を樹つ。
 次の三は、所作巳弁に就いて号とす。
 次の二は、処中に拠って義を表す。
 次の二は、貫線摂持等を以て字を顕わす。
 もし総の義を以って説かば、皆、人・法・喩を具す。
 是れ則ち、大般若波羅蜜多菩薩の名なり、即ち是れ人 なり。
 この菩薩に、法曼荼羅・真言三摩地門を具す。
 一一の字、即ち法なり。
 この一一の名は、皆世間の浅名を以て法性の深号を表 わす。
 即ち是れ喩なり。
 此の三摩地門は、仏、鷲峯山に在して、鶖子等の 為に之を説きたまえり。
 この経に、数の翻訳あり。第一に、羅什三蔵の訳、
 今の所説の本、是なり。
 次に、唐の遍覚三蔵の翻には、題に仏説摩訶の四字無し。
 五蘊の下に等の字を加え、遠離の下に一切の字を除く。
 陀羅尼の後に功能無し。次に、大周の義浄三蔵の本に は、題に摩訶の字を省き、真言の後に功能を加えたり。
 また法月、及び般若両三蔵の翻には、並びに序分・流 通有り。
 また、陀羅尼集経第三の巻に、この真言法を説けり。
 経の題、羅什と同じ。
 般若心と言っぱ、この菩薩に身心等の陀羅尼有り。
 この経の真言は、即ち大心呪なり。
 この心真言に依って、般若心の名を得。
 或るが云く、大般若経の心要を略出するが故に、心と 名づく。
 是れ別会の説にあらずと。
 所謂、龍に蛇の鱗有るが如し。
 この経に、総じて五分有り。
 第一に、人法総通分、観自在というより、度一切苦厄に 至るまで是れなり。
 第二に、分別諸乗分、色不異空というより、無所得故 に至るまで是れなり。
 第三に、行人得益分、菩薩薩たというより、三藐三菩 提に至るまで是れなり。
 第四に、総帰持明分、故知般若というより、真実不虚 に至るまで是れなり。
 第五に、秘蔵真言分、規購規購というより、泗爾に至る まで是れなり。
 第一の人法総通分に五有り。
 因・行・証・入・時、是れなり。
 観自在といっぱ、能行の人、即ちこの人は、本覚の菩 提を因とす。
 深般若は、能所観の法、即ち是れ行なり。
 照空は、即ち能証の智、
 度苦は、則ち所得の果、果は即ち入なり。
 かの教に依る人の智、無量なり。智の差別に依って、 時また多し。
 三生・三劫・六十・百妄執の差別、是れを時と名づく。
 頌に曰く、
 観人智慧を修して
 深く五衆の空を照す 
 歴劫修念の者 
 煩を離れて一心に通ず 
 第二の分別諸乗分に、また五つ有り。 
 建・絶・相・二・一、是れなり。 
 初めに、建といっぱ、所謂、建立如来の三摩地門是れ なり。
 色不異空というより、亦復如是に至るまで、是れなり。
 建立如来といっぱ、即ち普賢菩薩の秘号なり。
 普賢の円因は、円融の三法を以て宗とす。
 故に以て之に名づく。
 また是れ、一切如来の菩提心行願の身なり。
 頌に曰く、
 色空本より不二なり
 事理元より来同なり
 無げに三種を融ず
 金水の喩その宗なり
 二に、絶といっぱ、所謂、無戯論如来の三摩地門是れ なり。
 是諸法空相というより、不増不滅に至るまで是れなり。
 無戯論如来といっぱ、即ち文殊菩薩の密号なり。 
 文殊の利剣は、能く八不を揮って、かの妄執の心を絶 つ。
 この故に、以て名づく。
 頌に曰く、
 八不に諸戯を絶つ
 文殊は是れかの人なり 
 独空畢竟の理
 義用最も幽真なり
 三に、相とは、所謂、摩訶梅多羅冒地薩怛嚩の三摩地門、 是れなり。
 是故空中無色というより、無意識界に至るまで是れな り。
 大慈三昧は、与楽を以て宗とし、因果を示して誡とす。
 相性、別論し、唯識、境を遮す。
 心、只だ此れに在るか。
 頌に曰く、
 二我何れの時にか断つ
 三祇に法身を証す
 阿陀は是れ識性なり
 幻影は即ち名賓なり
 四に、二といっぱ、唯蘊無我、抜業因種、是れなり。
 是れ即ち二乗の三摩地門なり。
 無無明というより、無老死尽に至るまで、
 即ち是れ因縁仏の三昧なり。
 頌に曰く、
 風葉に因縁を知る
 輪廻幾の年にか覚る
 露花に種子を除く
 羊鹿の号相連れり
 無苦集滅道、此れこの一句五字は、
 即ち依聲得道の三昧なり。
 頌に曰く、
 白骨に我何んか在る
 青瘀 に人本より無し
 吾が師は是れ四念なり
 羅漢また何ぞ虞まん
 五に、一とは、阿哩也嚩 路枳帝冒地薩怛嚩 の三摩地門 なり。
 無智というより、無所得故に至るまで、是れなり。
 この得自性清浄如来は、一道清浄妙蓮不染を以て、
 衆生に開示して、その苦厄を抜く。
 智は、能達を挙げ、得は、所証に名づく。
 既に理智を泯ずれば、強ちに一の名を以てす。
 法華涅槃等の摂末帰本の教、
 唯だこの十字に含めり。
 諸乗の差別、智者、之を察せよ。
 頌に曰く、
 蓮を観じて自浄を知り
 菓を見て心徳を覚る
 一道に能所を泯ずれば
 三車即ち帰黙す
 第三の行人得益分に二有り。人法是れなり。
 初めの人に七有り、前の六、後の一なり。
 乗の差別に随って、薩埵に異有るが故に。
 また薩埵に四有り。愚識金智、是れなり。
 次に、また法に四有り、謂く、因行証入なり。
 般若は、即ち能因能行、無礙離障は、即ち入涅槃、
 能証の覚智は、即ち証果なり。
 文の如く思知せよ。
 頌に曰く、
 行人の数は是れ七
 重二彼の法なり
 圓寂と菩提と
 正依何事か乏しからん
 第四の、総帰持明分に、また三有り。名體用なり。
 四種の呪明は、名を挙げ、
 真実不虚は、体を指し、
 能除諸苦は、用を顕す。
 名を挙ぐる中に、初めの是大神呪は、声聞の真言、
 二は、縁覚の真言、三は、大乗の真言、
 四は、秘蔵の真言なり。
 もし通の義を以ていわば、一一の真言に皆四名を具す。
 略して一隅を示す。円智の人、三即帰一せよ。
 頌に曰く、
 総持に文義忍呪有り。悉く持明なり
 声字と人法と実相とにこの名を具す
 第五の秘蔵真言分に、五有り。
 初めの規購は、声聞の行果を顕わし、
 二の規購は、縁覚の行果を挙げ、
 三の皮規購は、諸大乗最勝の行果を指し、
 四の皮舎規購は、真言曼荼羅具足輪圓の行果を明かし、
 五の始瑚泗爾は、上の諸乗究竟菩提証入の義を説く。
 句義、是の如し。
 もし字相義等に約して之を釈せば、
 無量の人法等の義有り、
 劫を歴ても尽し難し。
 もし要問の者は、法に依って更に問え。
 頌に曰く、
 真言は不思議なり
 観誦すれば無明を除く
 一字に千理を含み
 即身に法如を証す
 行行として圓寂に至り
 去去として原初に入る
 三界は客舎の如し
 一心はこれ本居なり
 問う。陀羅尼は、是れ如来の秘密語なり。
 所以に、古の三蔵、諸の疏家、皆口を閉じ、筆を絶つ。
 今、この釈を作る、深く聖旨に背けり。
 答う。
 如来の説法に二種有り、一には顕、二には秘。
 顕機の為には、多名句を説き、秘根の為には、総持の 字を説く。
 この故に、如来自ら乾字喝字等の種種の義を説きたま えり。
 是れ則ち秘機の為に、この説を作す。
 龍猛無畏広智等もまた、その義を説きたもう。
 能不の間、教機に在りまくのみ。
 之を説き、之を黙する、並びに仏意に契えり。
 問う。顕密二教、その旨、天に懸かなり。
 今この顕経の中に、秘義を説く、不可なり。
 答う
 医王の目には、途に触れて、皆薬なり。
 解寶の人は、礦石を寶と見る。
 知ると知らざると、何誰が罪過ぞ。
 またこの尊の真言儀軌観法は、
 仏、金剛頂の中に説きたまえり。
 此れ、秘が中の極秘なり。
 應化の釋迦、給孤園に在して、
 菩薩天人の為に、画像壇法真言手印等を説きたもう。
 また是れ秘密なり。
 陀羅尼集経の第三巻、是れなり。
 顕密は人に在り、声字は、即ち非なり。
 然れども猶、顕が中に秘、秘が中の極秘なり。
 浅深重重まくのみ。
 我、秘密真言の義に依って
 略して心経五分の文を讃ず
 一字一文、法界に遍じ
 無終無始にして、我が心分なり
 翳眼の衆生は、盲て見ず
 曼儒般若は能く紛を解く
 この甘露を灑いで迷者を霑す
 同じく無明を断じて魔軍を破せん
                       般若心経秘鍵終わり
 時に弘仁九年の春 天下大疫す。
 爰に帝皇自ら黄金を筆端に染め 
 紺紙を爪掌に握って、般若心経一巻
 書写し奉りたもう。
 予講読の撰に範って 経旨の宗を綴る。
 未だ結願の詞を吐かざるに、
 蘇生の族途に佇む。
 夜変じて日光赫赫たり。
 是れ愚身が戒徳に非ず。
 金輪御信力の為す所なり。
 但し神舎に詣せん輩は、
 此の秘鍵を誦じ奉るべし。 
 昔予鷲峰説法の筵に陪って、
 親り是の深文を聞き、豈其の義に
 達せざらんやまくのみ。
               入唐沙門空海上表 
【口語文】
『般若心経の真意を読み解く秘密の鍵』
           遍照金剛(空海)の撰
 文殊菩薩は利剣(明晰なる智慧)を手にして、諸々の戯論(誤った考え方)を断ち切られる。
 般若菩薩はみ教えの梵典(ブッダの教え)を基して、調御(煩悩をしずめ、正しく導く)の師である。
 般若菩薩の真言の種子は豆にして、文殊菩薩のそれは糸。これらはともにあらゆる教法(みのり)を含む真言陀羅尼である。
 辺際もなく生死の苦界に迷う煩悩をいかに断つか。
 それは、まさしく、般若菩薩の内証の禅那(深い瞑想)と
 文殊菩薩の正思惟(明晰なる探求)をもってするほかない。
 この二菩薩の三摩地(深い悟り)の法門は、仁者(釈尊)は秘して談じられなかったところであるが、不肖空海が、これから「般若心経」の深い意義について述べたい。
 なにとぞ、世尊よ。哀れみの大慈悲を垂れ給まえ。
 かの仏陀(ブッダ)が示されたさとりというものは、遙かかなたにあるものではなく、最も身近な自身の中にある。
 ブッダの示された真如は、外にあるものではないというのに、それをおいて、どこに求めようというのか。
 迷いも悟りも自身にあり、発心すれ(気づけ)ば、たちまち悟るものである。
 気づきの光も迷いの闇も、自身であるから、怠りなく、自己を見つめ、探求することで、必ず証れるのである。
 しかし、なんと哀れで、哀れなことか。どこまでも長い迷いの闇夜に眠り呆けているものは・・・。
 なんと、苦しく、痛ましいことか。無明の酒に狂酔いしれる者は・・・。
 ひどく酔う者は、かえって酔わざる者を笑い、ただ惰眠をむさぼるものは、覚めている者を嘲う。
 このように、顛倒した心というものは、少しも、おのれの迷愚なる病を自覚もせず、 医王であるブッダの教えを求めることもない。このようなことで、どうして、病を癒やし、大日如来(ブッダ)の光明に気づけるというのであろうか。
 人の煩悩の翳障の軽重や、覚悟の遅速は、ひとそれぞれの迷いの状態による。
 それであるから、『金剛頂経』(金剛界)と『大日経』(胎蔵界)の二つの教えが示された。この二つの教えは、あたかも車の轍のように並びつつ、人々に悟りの気づきを促していく。
 あたかも煩悩を厳しく打ちくだく慈父の如き佛の智慧の門、即ち「金剛部」と、あらゆるものを慈しむ慈母の如き佛の慈悲の門、即ち「蓮華胎蔵部」を教えの道場として、人・天・声聞・縁覚・菩薩というそれぞれの覚醒の段階に応じた五つの道が示され、くつわを並べ、ひづめをならしつつ、真実へと誘う。
 医者が解毒の薬を選び分与えるように、慈悲深い両部の佛は人々に応じて迷いの毒を解き消される教えの法門を示される。まさしく、ブッダが人々を教え導かれる大綱はこのようなものであるのだ
 さて、『大般若波羅蜜多心経』とは、そもそも、大般若菩薩の大心真言による、深い悟りの境地であり、三昧にいたる(悟る)ための法門(教え)なのである。
 大般若波羅蜜多心経の文字は、一枚の紙でこと足り、行数は、わずかに十四行。しかし、簡略ではあるが、その要を得、文は約かであるが、その文義は極めて深いものである。
 ブッダの法門である経・律・論・般若・ 陀羅尼の五臓にわたる般若のあらゆる法門が「般若心経」の中の一字一句に余すことなく含みこまれており、律宗・倶舎宗・成実宗・法相宗・三論宗・天台宗・華厳宗といった七宗の境地も、わずかこの一行に呑み込んで、なお、足らないほどのものなのである。
 『般若心経』における「観自在菩薩」、もしくは、「菩提薩埵」」というのは、佛の道を歩む者のことをいう。
 「度一切苦厄」といい、「究竟涅槃」というのは、生死の苦界を離れ、煩悩の束縛を脱し、究極の涅槃に至る境地をあらわす。
 「五蘊」というのは、色・受・想・行・識における迷いを指す。  「三世諸佛」というのは、過去・現在・未来の三世に顕れた佛の悟りを示す。
 「色不異空、空不異色」等とは、色・空が隔てなく互換重合し、円かに融け合っている意義を示し、これがために、華厳の法主・普賢菩薩は喜び笑い給う。
 般若心経の「不生不滅、不垢不浄」等とは、虚妄の法を離れ、滅するのでなく、生ずるのでない。断滅でなく、常住でない。一たるものでなく、区別あるものでない。来るのでなく、去るのでない。という正覚者の寂滅した縁起生を示し、これがため、三論(観法の内証)の法主・文殊菩薩は、顔をほころばせて微笑まれるのである。
 また、「是故空中、無色無受想行識、乃至、無意識界」とは、心外事象に顕れるすべて実相は、心内すべての精神の活動においても、また、如実に把握すべしという八識すなわち眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識を示し、三界唯心の法相の法主弥勒菩薩は、これがため、手を拍って喜ばれる。
 般若心経の「無智亦無得、以無所得故」とはすなわち「観るもの」と「観られるもの」とはーつであるという天台法華の境地を示し、境智不二、会三帰一の内証を主どる観自在菩薩は、これがため、会心の笑みをもらされる。
 さらに、般若心経は「無無明亦無無明尽、乃至、無老死尽」は十二因縁を説き、その十二因縁における生起(生)と還滅(死)に非ざる真実の内証を「麒麟の一角」に喩え、無師独悟縁覚の者の内証として示す。
 それに続く「無苦集滅道」は迷いと悟りについての真実を示す「四諦」の転法輪であり、苦・空・無常・無我等を観ずる実践の佛の説法を親りに聞いた声聞の驚覚したものを示す。
 般若菩薩の大心真言のおける規購の二字は、佛の教えにもとづくあらゆる修行の境地と実践を含み、皮と皮舎の二つの真言は、顕教と密教の二つの法蔵の教えをに含む。
 このように、「般若心経」の一つ一つの音声・文字には、無量の義が含まれている。無限のとき歴てこれを示せども、語り尽くすことができない。また、一つーつの名字による真実の当相は広大で甚だ深いものなるがゆえ、いかに塵や滴のように無量の仏といえども、これを極め尽くして、ことごとく説き示すことはできないほどである。
 このようなことであるから、この「般若心経」を読誦し、受持(大切に保持)し、探求し、講説し、供養することは、あらゆる人々の苦しみを抜き、生きる歓びを与えることに寄与するといえる。 無常甚深の法であるこの経を日々夜々、探求するならば、自ずとさとりが開かれ、神通力が湧いてくるのであろう。
 そこで、これからのものにも理解が及べるよう「般若心経」の要点をまとめ、経を五つに分けて、講釈をしよう。
 この経典を注釈する者は数多いるが、まだ、この経典を真言密教の奥義(奥深い大切なところ)からのべたものは、まだ、いない。
 さらに、漢訳など翻訳の相異、顕教・密教の違いなどについては、後ほど解釈する。
 ある者が問う。
 「この般若経には五蔵の般若も七宗の行果も、ことごとく含まれているというが、この心経は釈尊の教えの空の一辺をを説いたもので、『華厳経』や『解深密経』の三時教判からすれば、第一時の『阿含経』など初時の教えに対し、『般若経』は第二時の空の教をのべたものとして未了義(まだ十分に真実を解きつくしていない)の経であるとされている。かかる未了義の経が、どうして第三時教判で顕了の経の深旨を含みえるといえるのか。けっして、そのようなことはいえないのではないだろうか。」
 空海、答える。
 「この心経が第二時の空経に過ぎないというが、それは、真実に通徹してない者の考えである。この「般若心経」は、三世の諸仏の師たる大日如来が般若菩薩の境地として開かれているものを、変化法身である釈迦牟尼如来がお悟りになられた内容を説いているものにほかならない。
 そもそも、三世諸仏のあらゆる教法、すなわち、人・天・声聞等の五乗の義はもちろんのこと、経・律・論のあらゆる三蔵の法が、この経に含蔵されているのである。如来の説法なるがゆえに、一つの文字に佛法のすべてがはいっていて、一つの念に佛法のすべて含まれており、何ら欠けたるものはないのである。
 それは、あたかも、焼いた亀の甲のひび割れの形や、草木や筮竹の卦などを使う中国古代の占いが、その中で天地万象ののすべてを判断して尽きることがないようにである。また、帝網重重といわれるように帝釈天の宮殿を飾る宝の珠網が、一粒一粒の珠がたがいに交映して、各にあらゆる他の珠、すなわち万象を含んで映すといわれるようにである。もしくは、帝釈天の梵語文典(インドの伝説)の一字一句に限りない内容を含むようにである。このように、「般若心経」にも、佛の教えのすべてが含まれているのである。
 論議するものがさらに問う、
 「もし、あなたの言うようなことがまことであるなら、いったい、これまでの佛教の師匠たちは、どうして、この大事なことを言われなかったのだろうか。まことに訝しく思われてならない。」
 空海、笞える。
 「たとえば、医者が病人に投薬するとき、症状に応じて対応するように、佛教の師匠たちも、説法したり沈黙したりするのは、そのときの相手の機根に応じて行われたものである。
 しかし、そもそも、先賢がどういうつもりであったかまでは私にはわからない。それが、たとえば、言うべき時であるにもかかわらず、それを言わなかったのか。それとも、言うべき時でないからそれを言わなかったのかなどということは・・・。
 にもかかわらず、ここで、小衲(空海)がここで説こうとするのは、真言(ブッダ)の導きによりそれを体得したからであり、やむにやまれぬ思いであるのだが、それにしてもこのようなことは、言うべき時でないときに、これを言ってしまうことになるかも知れない。もし、ここで、過失があるならば、ひとえに、佛・菩薩のお許しを頂戴するしかない。
 さて、それでは順次、説いていこう。
 「佛説摩訶般若波羅蜜多心経」は、この経題について二つの区別がある。古代インドの梵話と中国の漢語が使われているので、この題名は梵語と漢語がまじって使われている。
「説」と「心」と「経」の三文字は漢語であり、他の九文字は梵語である。
もし、梵語のみとするならば、榊噤唆似嵯爾皮茘皮宰糊写胡偲紫となる。
初めの榊噤の二文字は、ブッダすなわち圓満覚者(完全な悟りに達した佛)である。次の二字唆似は、「説」と訳し、秘密の教えを開いて佛の教えの真髄を示す、ということ。
次の嵯爾二字は、「摩訶」と音写し、大きい、多い、勝れている、とぃう三義を含み、次の二字皮茘は、正しい智慧であり、「般若」という音訳をたてる。
次の三字皮宰糊は、彼岸に到る(なすべきことはなしおえる)ということで「波羅蜜多」と音写する。
次の二字写胡は、「心」と訳し、般若菩薩の内心を示す。
次の二字偲紫は、「経」と沢し、佛法を糸で綴って身心に大切に保つということである。
 もし、経題の意味を総括するならば、みな、人と法と喩が同時に含まれているといえる。
 すなわち、「大般若波羅蜜多」とは菩薩のことで、佛格をもった人。この菩薩は、具現された真実世界を示す佛の教えを深く悟っている。
「般若心経」の一つ一つの文字は、法そのものであり、一つ一つの言葉は、みな世間で使われている普通の言葉でありながら、真実世界の深い意味を表す。ゆえに、これを喩という。
 つまり、大般若菩薩の内証(密教の法)を一般の仏教におけるわかりやすいことばで説いておられるということである。
 このもっとも深い悟りの境地の教えは、変化法身としての釈迦牟尼佛がインドのギジャクッセン(鷲峯山)におられたときに、弟子の鷲子(舎利弗)たちのために、これを説かれたのだが、その奥義は、後の者には理解しがたく、七世紀になってようやく明かされつつあるのである。
 この心経には、数多くの翻訳がある。
 第一は、羅什三蔵の訳があり、今説いているものは、この経本によっている。
 次に、唐の玄奨三蔵の翻訳には、経題に「佛説摩訶」の四文字がない。「五蘊」の下に「等」の文字が加えられ、「遠離」の下に「一切」の文字が除かれ、また、「掲諦掲諦•…: 」の「陀羅尼」の後には、経の功徳の文がない。
 次に、大周の時代の義淨三蔵の翻訳には、経の題に「摩訶」の二文字を省き「掲諦掲諦…・:」の真言の後に功徳が加えられている。
 また、法月と般若の二人の三蔵の翻訳には、序文と、その経典が代々伝えられることを記す文がある。
 また、「陀羅尼集経」の第三の巻にも、この真言の教え(「般若心経」)が説かれている。私(空海)が用いる経文の題は、羅什三蔵と同じ訳である。
 『般若心経』とは「般若菩薩の心(内証)をといた経」といえる。般若菩薩には、他の諸尊と同じく身・心等の陀羅尼があるが、「掲諦掲諦…・:」という「般若心経」の真言が心陀羅尼にあたる。この故に、般若菩薩の心陀羅尼が説かれているので、この経が「般若心経」というのである。
 ある者が次のようにいう。
「般若心経」は「大般若経」の真髄を略述したものであるから、「心経」としている。だから、これは「大般若経」とは別に般若菩薩が説かれたものではない。」と。
 しかし、『般若心経と』と『大般若経』の関係は、一見すると経題が似ているが、しかし、たとえば、蛇が成長し、発達し進化して龍に変じた際に、龍の身体にかつての蛇の鱗が一枚残っていても、蛇と龍は全く異なっているように、「般若心経」にも「大般若経」と同じ言葉が使われていても、その境地は全く異なる密教の曼荼羅を説いているのである。
 この経典は、全体として五つに分けられる。
 第一は、般若の法とこれを行ずる者とのすべてに通ずる「人法総通分」。
「観自在菩薩」から「一切の苦厄を度す」までがそれにあたる。
 第二は、般若の法が自然に華厳・三論・法相・二乗・天台一乗等の佛教を俯瞰する「分別諸乗分」。
「色は空に異ならず」から「無所得を以ての故に」という部分
がここにあたる。
 第三は、諸々の般若を行ずる者の得益を説く「行人得益分」。「菩提薩埵 は般若波羅密多に依るが故に」より「三藐三菩提を得たもの」までが、ここにあたる。
 第四は、般若の法門そのものが大神咒、大明咒の四種の秘密佛教の秘文であることを示す「総揺持明分」。
「故に知る般若波羅蜜多は」より「真実にして虚しからず」というところが、これにあたる。
 第五は、正しく般若菩薩の「秘蔵真言分」。
「掲諦、掲諦、波羅掲諦、波羅僧掲諦、菩提娑婆賀」というと
ころが、ここにあたる。
 この五つの部それぞれを見ると、心経には仏教のすべての教理を含み、さらにそれを超越しているのである。このことを次に明らかにしよう。
観自在菩薩は、深く般若波羅蜜多を行じし時、五蘊は、みな空なりと照見し、一切の苦厄を度したまえり。
 第一の「人法総通分」は、また五つに分けられる。因・行・証・入・時がこれである。
 経文の「観自在」という言葉は、この般若菩薩の教法を自由自在に観察し修行する者のことで、能行の者、すなわち彼は本覺の菩提を因とし、悟りを得ることを目的とする。
 「深般若」という言葉は、能所観の法、すなわち、真実を悟る智慧と真実そのものとが本質的に一致する佛の智慧の働きを指し、これが、法を求める者の修行(行)である。
 「照空」という言葉は、能証の智、すなわち、空を明ら
かにするということで、法を求める者が身心で証明する真実の智慧である。
 「度苦、一切の苦厄を度す」という言葉は、「空」の体得の窮みで、それはあらゆる執着から離れることで、苦を越え、涅槃の境地に入ることである。
この「深般若」を修行する人の智慧は、はかり知れないものがある。その違いによって、悟りを得るまでの間の経緯もさまざまである。過去・現在・未来の三世をかけて佛になるとする三生と説く教え、無限に近い三劫と説く教え、声間は六十劫、
緑覚は百劫かかって迷妄の執着を断つというように、いろいろ違いがある。このような修行の区別を「時」と名づける。
 頌にして示そう。
観達自在の菩薩が
 智慧を修めて、
 深く五つの衆りのあらゆるものをば
 みなことごとく「空」であると照らす。
 三生や三劫の「時」のとらわれを越え、
 顕密さまざまの教えを祈念修行し、
 煩悩の苦厄から離れて、
 般若菩薩の根本に通達するのである。
舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色即ちこれ空、空即ちこれ色、受、想、行、識もまた、かくの如し。
第二の分別諸乗分にも、また五つの区別がある。
 無碍を建立する如来の説かれる建、
 意味のない対立の議論を断つことを説く教えの絶、
 ものごとの実相を説く弥勒菩薩の教えの相、
 佛の説法を聞いて悟る声聞や独りで悟る縁覚の二つの教え、
 観自在菩薩が説かれた法華一乗の教えの五つが、それである。
 初めに「建」というのは、建立如来(普賢菩薩)の深い悟りの境地すなわち華厳の教え。
「色は空にあらず」から「亦復是の如し」までがこれにあたる。
 建立如来とは、普賢菩薩の佛としての別の名前である。
普賢菩薩の本質的は、悟りを求める人々の心の中に現象のものごとと真理が一つとして建立されている。だからこそ、「建立」という名にしている。
 またこの普賢菩薩とは、すべての如来の菩提心における誓願と実践とをあらわす佛身そのものである。
 頌にして示そう。
 現象の色と真実の空とは、もともと別のものではない。
 理法にもとづく現象と、道理とは、元来同じなのである。
 現象そのもの(事事)も、真実そのもの(理理)も、現象と真 実の互換重合(事理)も、みな一つに融け合っている。
 例えば、金造りの獅子の金と獅子、川面の波の水と波の関係 といったようにと、現象と真実の関係を示している。
舎利子よ、この諸法は、空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄らかず、増さず、減らず、
 第二に「絶」というのは、いわゆる無戯論如来の悟りの境地である。
「是緒法は空相にして」より「不増不滅」のところまでが、この教えをあらわしたもの。
無戯論如来という名前は、文殊菩薩の密號である。
文殊菩薩の智慧の働きは、いわゆる不生・不滅、不常・不断、不一・不異、不来・不来の「非」により、虚妄を絶つがゆえ「絶」と名づけた。
 頌にして示そう。
 八つの非は、いろいろな誤った議論を断ち切る。
 文殊菩薩は、この教えの中心にある菩薩である。
 三論は相待空と絶待空を越えた究極の空である独空を立 てるが、真如独尊の不待空の独空の道は、もっとも奥深くは かり知れないほどすばらしい悟りそのものである。
この故に、空の中には色もなく、受も、想も、行も、識もなく、眼も、耳も、鼻も、舌も、身もなく、色も、声も、香も、味も、法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし、
 第三に「相」というのは、いわゆる弥勒菩薩の深い悟りの境地である。
「是故空中無色」より「無意識界」にいたるまでがそれである。
弥勒菩薩の悟りは、慈悲心による衆生の救済にあり、抜苦与楽がその根本で、因果の道理を示すことをいましめとしする。
 現実の相とその本質の区別を論じ、また、心の働きから外の認識ができるとし、現象が真実の存在ではないと否定する虚妄を破る。
弥勒菩薩の慈悲の心は、ただ現象の実相に即して、虚妄世界へのとらわれを除き、安楽を得させんとすることにあるからである。
 頌にして示そう。
 固定的な自我や物ごとを実体と見て、二つにとらわれてい ては、いつこれを断つことができるであろうか。
 考えられないほどの長い長い年月を経ても断ち尽くせない ほどの妄執を超越したとき、はじめて佛の悟りを実証する のである。
 認識により生じている阿陀那識(阿頼耶識)は、ものと心の 本質を三世にわたり認識する主体とされているが、刻々の 事象の実相を観るものではなく、名前だけの虚妄なるもの を実体とした幻影に過ぎないのだ。
無明もなく、また無明の尽きることもなし。乃至、老も、死もなく、また、老と死の尽きることもなし。苦も、集も、滅も、道もなく、
 第四に「二」というのは、唯蘊無我すなわち現象世界に我の実体はないことを悟り、抜業因縁すなわち悪業を抜き、十二因緑を身にして到る縁覚の境地とをいう。これは声聞・縁覚の悟りの境地である。
 「無明も無く」より「老死の尽くること無し」のところが、このことを表す。
 頌にして示そう。
 飛花落葉の自然の変化に無常を見、十二因縁の道理を知る。
 流転・輪廻の四生に転じて、そこからぬけ出すには、どれだ けほどの年月を経ようというのか。このように煩悩の種子を とり除き、そして悟りを得んとする縁覚の者を、声聞の者 と連ねて二乗という。
 「苦集滅道も無し」という一句五文字は、佛の声教を聞いてさとりを得る者の深い悟りの境地を説く教えである。
 頌にして示そう。
 白骨のどこにその人の「我」があるというのか。
 風雨にさらされた死体に、そもそも人はいない。
 私たちが師とすべき身受心法の四念處。すなわち、身は不 浄であり、受は苦であり、心は無常であり、法は無我であ ること。すなわち、体は清浄でなく、感受は苦を呼び、心は いつも移ろい変化し、すべては実体でないという四つの真実に よらなければ、阿羅漢の境地に至るといえどもまだ偏真の 理、灰身の楽にすぎず、どうしての安楽といえようか。
智もなく、また、得もなし。得るところなきを以ての故に、
 第五に、「一」というのは法華一乗のことであり、一道清浄のことである。
乾醍沙市犠購師檎似敲すなわち観自在菩薩の深い悟りの境地である。
 「智も無く」から「無所得を以ての故に」までにこの教えが説かれる。
 もともと清浄の本性をもつ観自在菩薩は、泥沼の中から発芽して育ち、汚されることなく消らかな花を咲かせる蓮の花のような真実の道を衆生に示し、その苦しみ災厄を取り除く。
「智」というのは、其実を悟る智慧の力、「得」というのは、衆生に実証される佛の悟りをいう。
 観自在菩薩の悟りというのは、観る(悟り)ものと、観られる(悟りを得られる)ものの対立区別をこえているので、あえて「一」 という。
 「法華経」や「涅槃経」は、枝末の三乗の教えを一つにもどし、佛の悟りそのものにまとめるもので、ただこの「無智亦無得以無所得故」の十字に含まれているのである。
 心経はこれらの教えの、それぞれの意義や違いを含むがゆえ、よくよく考察せねばならない。
 頌にして示そう。
 泥沼から出て、美しい花を咲かせる蓮の花を観察し、自分 の自性が、本来清浄であることを知り、
 蓮の台に果実の充足しているのを見て、
 自身にそなわる佛の悟りの徳を覚る。
 根本の教えによって、観る(悟り)ものと観られる(悟られる) ものの対立がなくなれば、声聞・縁覚・菩薩のそれぞれの教 えは一つにまとめられ、差異区別という対立の断片化を越 える。
菩提薩埵は 般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなし。一切の顛倒せる夢想を遠離して、涅槃に究竟す。三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。
 第三の「行人得益文」には、「人」と「法」の二つがある。
 初めの「人」には、七種類がある。
 建立如来(建・華厳)・文殊菩薩(絶・三論)・弥勒菩薩(相・
法相) ・声聞乗・縁覚乗・観自在菩薩( 一・天台)という六つの教えによって悟る者、それからあと一つ、真言の教えによって悟る者である。
 悟りへの方法の種類によって、修行する者達にも、違いがある。
 また、「人」は四つに分けられる。
六道に迷い続ける者。声聞乗・縁覚乗の者。真言の教えを実行する者。法相・三論・天台・華厳の教えを修業する者。これらの四種類である。
 次に、「法」も四つに分けられる。
 般若は菩提心と修行を意味し、さまたげ、さわりから完全に離れるという。つまり、涅槃に入ったことをいう。
 実証された真実の智慧は、つまりは偉大なる悟りそのものである。
「菩提薩埵 は般若波羅蜜多に依るが故に:.... 」という般若心経の文についてよくよく考察すべきである。
 頌にして示そう。
 修行する者は、七種類に分けらる。
 建絶相二一の修行と真言の菩提心という七つである。
 悟った後の因と行と証と入すなわち実証と涅槃に入るとい う四つが修行の法なのである。
 圓寂(完全に自由な境地)と菩提(真実の智慧)と、正報の人 (修行者たちの求めてやまぬ身心)と、依報の国土(よりど ころとしてある事象の現世)がそろうのに、何が不足という ことがあろうか。
故に、知るべし。般若波羅蜜多はこれ大神咒なり。これ大明咒な。、これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き給う。真実にして虚ならざるなり。
 第四の「総帰持明分」は、また三つに分けられる。
それは、真言の名前と、その本体と、働きである。
 四種の句は、真言の名前をあげ、「真実にして虚しからず」は、真言の本体をいいあらわし、「能く一切の苦を除く」は、真言の働きをあらわす。
 真言の名前の中で、はじめの「是れ大神児なり」という句は、声聞の真言、二番目は縁覚の真言、三番目は大乗の悟りを示す真言、四番目は秘蔵の悟りをあらわす真言である。
 これまでのことを通してみると、一つ一つの真言には、声聞・縁覚.大乗・秘蔵が含まれている。が、あえて一つの名前を出しているのである。
 完全な智慧を求める者は一つの名前に他の三つの悟りも含まれていることを知るように。
 頌にして示そう。
 あらゆるものを総持する陀羅尼には、それをあらわす文字 と意味とがある。
 悟りの果と、それにそなわる特別な力とは、すべて真言で あらわされる。
 表現における声と文字、内容における人と法、それに本体としての実相をそなえた「真言」に匹敵する名がそなわる。
故に、般若波羅蜜多の咒を説こう。すなわち、咒に曰く
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
 第五の「秘蔵真言分」は、五つに分けらる。
 はじめの「掲諦」は、声聞乗の人の修行の結果で、二番目の「掲諦」は、縁覚乗の人の修行の結果で、三番目の「波羅掲諦」は、菩薩の修行の結果で、四番目の「波羅僧掲諦」は、真言の完全な世界を求める人の修行の結果で、五番目の「菩提娑婆賀」は、以上の教えによって究極の悟りに入る意味をのべている。
 言葉の意味は、このようなものである。
 文字のすがたと文字の真実の意味などに要約して真言を紹釈してみると、はかり知れないほどの多くの人や法などに関わる意味がある。どんなに長い長い時間をかけても説明し尽くすことは難しい。
 もし、それでも開きたいと思う人は、真言の方法に依ってさらに問い続けるように。
 頌にして示そう。
 真言というものは、あらゆる思議を越えたもの。
 この真言を深く心に観念し、口に誦えれば、無明の闇が取 り除かれる。
 一つの文字の中にたくさんの深い教えが入っており、それぞ れの人が、この身そのままに佛の智慧と真実を実証するこ とができる。
 行き行きて涅槃の境地にいたり、去り去りて悟りへの出発 点の菩提心にもどって入る。
 この現象世界は、仮の宿のようなもので、菩提心こそが本来 の住みかなのである。
 問う。
 「陀羅尼というのは、佛の秘密の悟りである。故に古より三蔵たちをはじ諸々の疏家たちはいずれも、この真言陀羅尼については口をつむぎ、筆を断って何の説明もしなかった。
ところが今、この解釈をつくられたが、これは佛の悟りの本質に対して背くことになるのではないだろうか?」
 答う。
 佛の説法には、二つの種頚がある。その一つは、顕かな言葉による説法、もう一は、秘密の言葉による説法である。
 大日如来は、顕かな言葉による説法がふさわしい者には、多くの言葉を使って教えを説かれるように、秘密の言葉がふさわしい者には、陀羅尼を説かれるのである。
 このために、大日如来自ら乾字や喝字などの如来の悟りのさまざまなことを説かれた。
 つまり、この秘密話による説法は、真言秘密の教えがふさわしい者のために説かれた。
 龍猛や善無畏や大広智不空などの祖師たちも、ところどころに秘密語を説かれる。
 そもそも、陀羅尼を説く、説かぬは、佛意にかなって行われるものであるから、佛に背くことではないのである。
 問う。
 「顕教と密教とは、その主旨とするところは、はるかに
異なっている。今、この顕教の経典である「般若心経」において、秘密の教えが説かれようはずもないと思うが。」
 答う。
 般若心経がたとえ顕教であったとしても、たとえば、最高の医者には、使用法によってすべてが薬になるものである。宝石を見分けることのできる者は、天然の鉱石から宝石を見つける。このように、顕教の経典の中に、秘密語の教えを読みとれる、とれないは、般若心経そのものの上のことではない。ということは、いったい誰の問題となるのであろう。
 また、この般若菩薩の真言や儀式や観法の方法は、大日如来の金岡頂経の中に説いている。これは、秘密の中でも特に重要な秘密にあたる。
 応化の釈尊(人々それぞれに応じて説法をされた釈尊)は、給孤独園におられて、菩薩・天・人のために画像、作壇方法、真言や、手で結ぶ印契などを説かれた。また、これも秘密である。
 別教の経典「陀羅尼集経」の第三巻に説かれているのが、この教えである。
 要は、顕教とか密教とかを区別するのは、その教えを受ける側の者による。説法の声字それ自体に固執すべきではない。
 けだし、なお、顕教の中にも秘密語による教えが説かれ、密教の中にもさらに奥深い秘密語による教えが説かれていて、浅い教え、深い教えが幾重にも重なり合っているのである。
 古来の法匠は「般若心経」を顕教とされたが、小衲(空海)は秘密真言の教えを体得しており、その視点で五つに分けて、解説した。
 「般若心経」の一文字一文字においても、佛の世界全体にゆきわたり、いつ始まったか、いつ終わったかということもなく、それらは、すべてわれわれのうちにあるのである。
 真実を見る目にかげりのある人にとって、真実を見ることはできないが、文殊菩薩の智慧の教えと般若菩薩の空の教えは、人間世界の迷いのどんな問題も解きおさめることができるのである。
 この真実の教えを衆生にそそいで、迷いの心を真実の世界に導くものである。
 さあ、皆、一緒に迷いの根本を断ち切り、煩悩の魔軍を打ち破ろう。
 般若心経秘鍵 終わり
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『般若心経秘鍵』
「弘法大師空海による解釈」
【原文】  (漢文)
般若心經祕鍵 并序
                                     遍照金剛撰
文殊利劍絶諸戲 覺母梵文調御師豆糸眞言爲種子 含藏諸教陀羅尼
無邊生死何能斷 唯有禪那正思惟
尊者三摩仁不讓 我今讃述垂哀悲
 夫佛法非遙。心中即近。眞如非外。棄身何求。迷悟在我。則發心即到。明暗非他。則信修忽證。哀哉哀哉長眠子。苦哉痛哉狂醉人。痛狂笑不醉。酷睡嘲覺者。不曾訪醫王之
藥。何時見大日之光。至若翳障輕重覺悟遲速。機根不同。性欲即異。遂使二教殊轍。分手ヲ金蓮之場。五乘並鏕。踠 蹄ヲ幻影之垺 。隨其解毒得藥即別。慈父導子之方。大綱在此乎。                                       大般若波羅蜜多心經者。即是大般若菩薩大心眞言三摩地法門。文缺一紙。行則十四。可謂簡而要約而深。五藏般若嗛一句而不飽。七宗行果歠 一行而不足。觀在薩埵 則擧諸乘之行人。度苦涅槃則褰 諸教之得樂。五蘊横指迷境。三佛竪示悟心。言色空則普賢解頤ヲ圓融之義ニ。談不生則文殊破顏ヲ。絶戲之觀ニ。説之ヲ識界ニ簡持拍手。泯之ヲ境智ニ歸一快心。十二因縁指生滅ヲ於麟角。四諦法輪驚苦空ヲ於羊車。況復規購二字呑諸藏之行果。皮舎兩言孕顯密之法教。一一聲字ハ歴劫之談ニモ不盡。一一名實ハ塵滴之佛モ無極。是故誦持講供則拔苦與樂。修習思惟則得道起通。甚深之稱誠宜可然。
 余教童之次。聊撮綱要釋彼五分。釋家雖多。未釣此幽。翻譯同異顯密差別。並如後釋。或問云。船若第二未了之教。何能呑三顯之經。如來説法。一字含五乘之義。一念説三藏之法。何況一部一品何匱何無。龜卦爻蓍含萬象而無盡。帝網聲論呑諸義而不窮。
 難者曰。若然前來法匠何不吐斯言。
 答。聖人投藥隨機深淺。賢者説默待時待人。吾未知
蓋可キヲ言不ルカ言不言不ルカ言。不言言之。失カ智人斷而已。
 佛説摩訶般若波羅蜜多心經者。就此題額有二別。梵漢別故。今謂佛説摩訶般若波羅蜜多心經者。胡漢 雜擧。説・心・經三字漢 名。餘九字胡號。若具梵名曰榊噤唆似嵯爾皮茘皮宰糊写胡偲紫初二字圓滿覺者之名。
次二字開悟密藏施甘露之稱。次二字就大多勝立義。次二字約定慧樹名。次三就所作已辯爲號。次二據處中表義。次二以貫線攝持等顯字。若以總義説。皆具人法喩。斯則大般若波羅蜜多菩薩之名。即是人。此菩薩具法曼荼羅眞言三摩地門。一一字即法。此一一名皆以世間淺名表法性深號。即是喩。此三摩地門。佛在鷲峯山。爲鶖 子等説之。此經數翻譯アリ。第一羅什三藏譯。今所説本是。次唐遍覺三藏翻。題無佛説摩訶四字。五蘊下加等字。遠離下除一切字。陀羅尼後無功能。次大周義淨三藏本。題省摩訶字。眞言後加功能。又法月及般若兩三藏翻。並有序分・流通。又陀羅尼集經第三卷説此眞言法。經題與羅什同。言般若心者。
此菩薩有身心等陀羅尼。是經眞言即大心呪。依此心眞言得般若心名。或云。略出大般若經心要故名心。不是別會説 云云 所謂如有龍之蛇鱗。
 此經總有五分。第一人法總通分。觀自在ト云ヨリ至度一切苦厄是。第二分別諸乘分。色不異空ト云ヨリ至無所得故是。第三行人得益分。菩提薩埵ト云ヨリ至三藐三菩提是也。第四總歸持明分。故知般若ト云ヨリ至眞實不虚是也。第五祕藏眞言分。規規購購ト云ヨリ至泗爾是也。第一人法總通分有五。因・行・證・入・持是也。言觀自在能行人。即此人本覺菩提爲因。深般若能所觀法。即是行。照空則能證智。度苦則所得果。果即入也。依彼教人智無量。依智差別時亦多。三生三劫六十百妄執差別。是名時。
 頌曰
觀人修智慧  深照五衆空
歴劫修念者  離煩一心通
第二分別諸乘分亦五。建・絶・相・二・一是也
初建者。所謂建立如來三摩地門是。色不異空ト云ヨリ至亦復如是是也。建立如來即普賢菩薩祕號。普賢圓因以圓融三法爲宗。故以名之。又是一切如來菩提心行願之身。
 頌曰
色空本不二  事理元來同
無礙融三種  金水喩其宗
二絶者。所謂無戲論如來三摩地門是也。是諸法空相ト云ヨリ至不増不減是。言無戲論如來。即文殊菩薩密號。文殊利劍能揮八不絶彼妄執之心乎。是故以名。
 頌曰
八不絶諸戲  文殊是彼人
獨空畢竟理  義用最幽眞
三相者。所謂摩訶栴多羅冐地薩怛嚩 三摩地門是也。是故空中無色ト云ヨリ至無意識界是也。大慈三昧以與樂爲宗。示因果爲誡。相性別論。唯識遮境。心只在此乎。
  頌曰
二我何時斷  三祇證法身
阿陀是識性  幻影即名賓
四二者。唯蘊無我拔業因種是也。是即二乘
三摩地門也。無無明ト云ヨリ至無老死盡。即是因
縁佛之三昧。
  頌曰
風葉知因縁  輪迴覺幾年
露花除種子  羊鹿號相連
無苦集滅道。此是一句五字即依聲得道之三昧
  頌曰
白骨我何在  青瘀人本無
吾師是四念  羅漢亦何虞
五一者。阿哩也嚩 路枳帝冐地薩怛嚩 之三摩地門也。無智ト云ヨリ至無所得故是也。此得自性清淨如來。以一道清淨妙蓮不染。開示衆生拔其苦厄。智擧能達。得名所證。既泯理
智。強以一名。法華・涅槃等攝末歸本教。唯含此十字。諸乘差別智者察之。
  頌曰
觀蓮知自淨  見菓覺心徳
一道泯能所  三車即歸默
第三行人得益分有二。人・法是也。初人有七。前六後一。隨乘差別薩埵有異故。又薩埵 有四。愚・識・金・智是也。次又法・四。謂因・行・證・入也。般若即能因能行。無礙離障即入
涅槃。能證覺智即證果。如文思知。
  頌曰
行人數是七  重二彼之法圓寂將菩提  正依何事乏
第四總歸持明分又三。名・體・用。四種呪明擧名。眞實不虚指體。能除諸苦顯用。擧名中。初是大神呪聲聞眞言。二縁覺眞言。三大乘眞言。四祕藏眞言。若以イハハ通義。一一眞言皆具四名。略示一隅。圓智之人三即歸一セヨ。
  頌曰
總持有文義  忍呪悉持明
聲字與人法  實相具此名
第五祕藏眞言分有五。初規購顯聲聞行果。二規購擧縁覺行果。三皮規購指諸大乘最勝行果。四皮舎規購明眞言曼荼羅具足輪圓行果。五始瑚泗爾説上諸乘究竟菩提證入義。句義如是。若約字相義等釋之。有無量人法等義。歴劫難盡。若要聞者依法更問ヘ。
  頌曰
眞言不思議  觀誦無明除
一字含千理  即身證法如
行行至圓寂  去去入原初
三界如客舍  一心是本居
問。陀羅尼是如來祕密語。所以古三藏諸疏家。皆閉口絶筆。今作此釋。深背聖旨。如來説法有二種。一顯二祕。爲顯機説多名句。爲祕根説總持字。是故如來自説乾字喝字等種種義。是則爲祕機作此説。龍猛・無畏・廣智等。亦説其義。能不之間在教機耳。説之默之。並契佛意 
問。顯密二教其旨天懸。今此顯經中説祕義不可。
醫王之目觸途皆藥。解寶之人礦石ヲ見寶ト。知與不知。何誰罪過。又此尊眞言儀軌觀法。佛金剛頂中説。此祕中極祕。應化釋迦在給孤園。爲菩薩天人説畫像壇法眞言手印等。亦是祕密。陀羅尼集經第三卷是。顯密在人。聲字即非。然猶顯中之祕。祕中極祕。淺深重重耳
 我依祕密眞言義  
 略讃心經五分文
 一字一文遍法界     無終無始我心分
 翳眼衆生盲不見     曼儒般若能解紛
 灑斯甘露霑迷者     同斷無明破魔軍
      般若心經祕鍵
  于時弘仁九年春。天下大疫。爰帝皇自染黄金於筆端。握紺紙於爪掌。奉書寫般若心經一卷。予範講讀之撰。綴經旨之宗。未吐結願詞。蘇生族于途。夜變而日光赫赫。是非愚身戒徳。金輪御信力所爲也。但詣神舍輩。奉誦此祕鍵。
昔予陪鷲峯説法之莚。

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仏説摩訶般若波羅蜜多心経 [思索]

【解釈】 
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
 深い般若波羅蜜多において本不生を覚知せる観自在菩薩は、次のように観察された。
 外界は、先験なる本不生より停滞なく、今の変動が経過し、消失する実相にある。これ故に、外界は、全き新しき創造が刻々になされていると。
 この本不生からなる森羅万象を、われわれは、五蘊という感受作用(受)・思惟(想)・潜在意識(行)・認識(識)の働きによって知覚している。その五蘊というものは、外界の事象を知覚し、記録し、経験し続けるものであるが、この五蘊の機能によって、認識の主体、すなわち、自我を形成する。この自我によって、外界の事象を経験的に認識する。
 だが、五蘊に投影されたものは、外界の事象をあたかも実体のように認識しているが、映し込んだ画像を見るようなもので、先験より今に経過し消失する外界の実相そのものを見ているのではない。この経験的虚像を、あたかも実体と視て、それに執着することを、ブッダは、虚妄の法として却けられた。
 外界における森羅万象は、先験なる本不生より、停滞なく、今に変動し、経過し、消失し、全き、新しき変動として、刻々に創造され、相続されている。これこそが、まさしく「空」の実相なのである。
 また、外界の事象は、一見すると、全て、相互依存・相互関係によって成り立ち、万物は、集散離合し、変化変滅し、何一つ単独では存在し得ないが故に「空」だ、と言うものもあるが、しかし、外界の事象を実体の事象と見ているかぎり、「空」を正しく理解しない虚妄の説にすぎない。また、外界の事象は、一見すると、「これあれば、かれあり生ず。かれあればこれあり生ず」というように因縁所生なるがゆえに「空」だと言うものもあるが、原因と結果を実体の転移ととらえるかぎり、「空」を正しく理解しない虚妄の説にすぎない。
  シャーリープトラよ、故に、色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 における、色というのは外界に投影された虚妄の実体を指すのではない。
 外界の事象は、先験より停滞なく、今に経過し、消失する全き新しき現象として、刻々に創造され、相続されている。この外界の事象における刻々の新たなる創造こそ、空象、すなわち「空」の実相というのである。
 シャーリープトラよ。 このように、森羅万象は空象なのである。空象から、森羅万象は、停滞なく今に経過し消失し、全く新しき現象の営みとして創造されている。この刻々の創造の営みを、われわれは、五蘊によって把握し認識する。しかし、五蘊に留めるものは、単なる記録に過ぎない。記録自体からは、何ら創造の営み、すなわち現象は起きない。しかるに、その記録を外界に投射し、そこに、刻々に生じる事象を重ね合わせ、あたかも外界の物質的実体が、生々流転していると誤認する。それこそが虚妄なのである。
 外界の実相は五蘊に留められた記憶から派生しているのではなく、先験なる空象から刻々と新たな事象として創造発生しているのである。
 五蘊という虚妄性からは何も生じない。本不生は五蘊に依らない、五蘊に把握できない真実相のところからやってくる。
 しかし、われわれ自身は、五蘊に依らざれば外界を認識できないのも、また、事実である。したがって、「空」の実相とはいえ、五蘊を離れて、現象はなく、現象を離れて、空象はない。また、空象を離れて、現象はなく、現象がなければ、五蘊はない。現象が空象であり、空象が現象である。だが、五蘊そのれは単なる記録の虚妄にすぎないのだ。
 また、色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 とは、空の実相は、空象と現象が本不生がの如来性の三身(法・報・応)において加持感応(互換重合)することで現象化することを示している。
 したがって、感受作用(受)・思惟(想)・潜在意識(行)・認識(識)もこのような空の実相を反映するものでなければならない。
 シャリープトラよ。森羅万象は空相であるから、五蘊により感受された虚妄の実体の生滅に非ざるものであり、五蘊により感受された虚妄の実体の淨穢に非ざるものであり、五蘊により感受された虚妄の実体の増減に非ざるものである。というのも、それらを超越した先験性すなわち本不生からもたらされるものは、虚妄に留まる実体ではないからである。
 また、空の実相は、五蘊おける形象に非ざるものであり、感受作用に非ざるものであり、思惟想念に非ざるものであり、潜在意識に非ざるものであり、意識に非ざるものである。なぜなら、空の実相は五蘊の感受作用に留まらず、超越している本不生であるからである。
 空相は、眼に非ず、耳に非ず、鼻に非ず、舌に非ず、身体に非ず、識(こころ)に非ず、したがって、形(色)に非ず、声に非ず、香に非ず、味に非ず、認識の対象(法)に非ざるものである。なぜなら、それらの感受作用に留まらず、超越している本不生であるからである。
 空相は、眼の世界(物質界)に非ず、意識の世界(意識界)に非ざるものである。なぜなら、それらの感受作用に留まらず、超越する本不生であるからである。
 空相は、無明に非ず、また無明の尽きるところに非ず。老死に非ず、また、老死の尽きるところに非ず。苦・集・滅・道にも非ず、智に非ず、得に非ざるものである。なぜなら、それらの感受作用に留まらず、超越している本不生であるからである。
 このように、得るところ(実体)に非ざるを以ての故に、菩提薩埵は、本不生の般若波羅蜜多の本不生に依るが故に、心に罣礙(障り)がない。罣礙(障り)なきが故に恐怖なく、一切の虚妄、顛倒せる夢想を超越した涅槃にあるのである。
 三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提すなわち空の実相を正覚された。
 般若波羅蜜多は大神咒であり、大明咒であり、無上咒であり、無等等咒である。よく、一切の苦を除く。真実にして虚ならざる般若波羅蜜多の真言である。すなわちその真言の本不生の創発のヒビキとはかくの如し。
”ギャーテー・ギャーテー・ハーラーギャテー・ハラソーギャーテー・ボージソワカ
 目覚めよ、目覚めよ。完全な阿字本不生に目覚めよ。全てのものよ、自身を照らすものよ、遍照金剛よ、いま、ここに、新たに創造するものよ。    般若心経

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【経文】


仏説摩訶般若波羅蜜多心経


観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神咒是大明咒是無上咒是無等等咒能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多咒即説咒曰 

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶

般若心経


【和文】

 

仏説摩訶般若波羅蜜多心経


観自在菩薩は、深く般若波羅蜜多を行じし時、五蘊は、みな空なりと照見し、一切の苦厄を度したまえり。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色即ちこれ空、空即ちこれ色、受、想、行、識もまた、かくの如し。

舎利子よ、この諸法は、空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄らかず、増さず、減らず、この故に、空の中には色もなく、受も、想も、行も、識もなく、眼も、耳も、鼻も、舌も、身もなく、色も、声も、香も、味も、法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし、無明もなく、また無明の尽きることもなし。乃至、老も、死もなく、また、老と死の尽きることもなし。苦も、集も、滅も、道もなく、智もなく、また、得もなし。得るところなきを以ての故に、菩提薩埵は 般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなし。一切の顛倒せる夢想を遠離して、涅槃に究竟す。三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。故に、知るべし。般若波羅蜜多はこれ大神咒なり。これ大明咒な。、これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き給う。真実にして虚ならざるなり。故に、般若波羅蜜多の咒を説こう。すなわち、咒に曰く

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶                 般若心経



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汲めども尽きせぬ本不生の泉 [思索]

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   汲めども尽きせぬ本不生の泉
   早朝、目が覚めると、いつもの通り、支度を調えて、本堂や諸堂のご本尊を始め多くの諸如来・諸菩薩・諸天善神や祖師先德の諸尊に参拝・供養させて頂く。
 礼拝をし、諸尊に対峙させて頂いた途端、光に満たされ、湧き上がる感受のままに、じっと心の耳を傾けた。その感受はこうであった。
●目覚める。漸う白む。小鳥たちも目覚め、朝の香りとともに水に触れ、口をすすぐ。朝の覚めとともに私は、この世界で動き出す。私が見なければ、世界は無く、世界が無ければ、私は見れない。
 私は、記憶を纏い、昨日からの世界を引き継ぐ。いま、新たな記憶を刻み、新たな世界に生きる。
 そして 一日の終わりに、床につき 私は眠る。そして、けさ、目覚め、おきだした。
 この私はどここから来て どこに行くのだろうか。
●私があって 世界がある。私が無ければ 世界は無い。しかし、世界は 私が無くてもある。私は世界を見聞きするが、世界が無ければ私は無い。私が無ければ、世界は見れない。世界が無ければ私は無い。私が無くとも 世界はある 世界が無ければ 私は無い。世界は何か。 私とは何か。
 これが、この現象界、この世(此岸)の掟なのだろうか。
●思考は 私であり、私は思考である。私が鎮まれば 思考は静まる。思考のざわめきが私である。私の思考がざわめきである。いま、この思考のざわめきに気づいている。思考が静まり、心は鋭敏になり、限りない広がりにある。
●彼岸と此岸。この世とあの世。現象と潜象。いまここと先験性。局所性と遍満性。一者と遍在。先験なる遍満性から局所化され現象化する。個々が世界、個々は絶えず遍満している先験なる彼岸に帰入してとどまることを知らない。気づきなさい。気づきなさい。「遍照金剛」は遍照と金剛。遍照は遍満性、金剛は局所性、すなわち大日如来と金剛菩たであり、全てのあなた自身であることを・・・。
●信仰は  順応ではなく、模倣ではなく、服従ではない。
 たえまない大慈大悲に気づきくこと それが、信仰の規律。
 正しい生活は妬みや貪欲や渇愛に縛られているあるがままの自分に気づくところからはじまる。
●心が目覚め、叡智があり、なにものにも囚われない。 
 それが光であり、それがあなたの本心。
 あなたはもともと光である。それゆえ、光は光を求めたりはしない。
●慈しみは、だれもが どんなところでもいただくことのできる尽きせぬ泉。分け隔てのない慈しみである。あなたが分け隔てのない慈しみしみにあるとき、安らぎがある。
●こんこんと湧き出る清水は止めることができない。湧きいづる先から流れ去る。留めれば瞬く間に古くなり、汚れてしまうだろう。留めようとしなければ、いつも新たなる清らかな水をいただくことができる。彼岸から湧きいづる本不生は無垢から無垢くへと、とどまることなく 絶えず湧きいづる慈しみ。
 そこに 安らぎと、秩序と、美と、創造がある。
●日常の枯渇のなかには 渇愛の苦悩や生老病死の苦悩がある。そのあるがままの日常の奥に汲めども尽きせぬ慈しみの清水を頂きなさい。
●日常のあなたの生活の中にこそ汲めども尽きせぬ慈しみの清水が、いつでもどこでも 蕩々と いまここに湧き出でいる。この本不生の清水を頂くことが、あなたの日常の瞑想である。
 この感受はほんの一瞬のことであったが、心に余韻を残すものであり、普段の生活に戻ってからも、しばらくは思念をめぐらざるを得なかった。それと同時に、響くものがあり、それは、次の、龍樹の
「縁起生」の一説である。
●「滅するのでなく、生ずるのでない。断滅でなく、常住でない。一たるものでなく、区別あるものでない 来るのでなく、去るのでない。その方は戯論の寂滅した吉祥な「縁起生」を説示なさった正覚者である。そのような最勝の方に敬礼する。」
 これは、「心の通信」で度々引用する龍樹菩薩の『般若論』の巻頭言の「帰教偈」である。
龍樹の『般若論』は一般的に『中論』として知られている。仏教の真理を探究する「論書」で極めて難解である。
 ブッダ自身が書き残されているものは一切ない。ブッダと対話した弟子たちがブッダ滅後なんとも集まって、互いに確かめ合って、文書として「経」や「律」や「論」として編纂され、これらを仏教徒が学すべき三蔵として、今日に至るまで「仏教」すなわち「ブッダの教え」として伝えられ、その量は極めて膨大な量となっている。すでに、龍樹の時代にも仏教は様々な見解に基づく論書が乱立状態にあった。覚者龍樹は戯論を論破し、ブッダ親説を浮き上がらせ、ひとりびとりの覚醒を促した。この龍樹の『般若論』の「帰教偈」における「縁起生」はブッダ親説の核心であり、根幹である。故に、いかに仏教が今日に至り発展してきたものであっても、この核心を外せば、仏説ではなく、蒙昧な宗教にすぎなくなると、強く警鐘を鳴らされている。
 この警鐘は現代においてなお重大事であろう。というのも、人間はどうしても認識において根本的な過ちに陥りやすいようにできているからだ。
 ブッダは現象世界を「虚妄の法」と見抜かれた。これまで、世間一般の常識がこれに反して、知覚された表象を静止的に記憶し、抽象し、実体的観念とし、それを外界に投影し、外界を記憶と重ね合わせ、外界のものを実体化する言語的、概念的に認識し把握する構造を虚妄の法として否定された。記憶や概念の色眼鏡で見ていて、実相を見ていないとされた。実相は知覚表象の原因となる変動が過去と未来の境になる今として経過しつつ、新たなる今に替わられて消失する空であると見抜かれた。この実相における空こそがブッダ親説の根幹であり、それは今も変わらないことであろう。
 しかも、戯論の寂滅した吉祥な「縁起生」を説示なさった正覚者ブッダは、覚りの境界を指し示すのではなく、ひとりびとりの覚醒を対話によりが促された方である。人々の苦悩が認識の構造の誤り、すなわち、自己欺瞞にあることを、ひと自身が自ら気づくよう、対話通して促された。
 その説示は次のようであった。
 ひとは苦しみや葛藤からのがれるために、さまざまな瞑想をあみだしてきた。しかし、それらには、欲望や意図と同質の達成しようとする衝動をはらんでいる。ゆえに、絶えず、未だ至らざる未達のものから到達し得た已達のものへ向かわんとする衝動が、さらに葛藤を生じさせている。
  瞑想を得ようとする努力ことは、かえって瞑想を否定することである。
 苦しみや葛藤から逃れようと、さまざまな瞑想法あみ出しているものは、思考である。
 この思考がやまないかぎり、瞑想は顕れない。あの、時間を超えた、全く新らしい刻々の真実は開かれない。表象や言葉や知覚のすべてを駆使した巧妙で欺瞞に満ちた思考に気づき、その思考が全くやんでしまうとき、そこに瞑想がある。思考がやむとは概念や思いのめまぐるしい動きがやむことであるが、眠りこけることではない。思考はやんでいても心は極めて明晰であり、活発であり、しかも、雑音がなく静かである。
 瞑想のさなかにある心は全く静かである。
 瞑想のさなかにある心、それは、刻々に変動する過去と未来の境になる今として経過しつつ、新たなる今に替わられて消失する、決してとどまることのない空の本流のさなかにある心である。それは寺院や教会や聖なる場所にいるからといって触れられるものではないし、熱心な祈りや、陀羅尼や経典を捧げたからといって触れられるものではない。いかに高邁な精神や崇高で敬虔なる精神を掲げようとも、獲得せんとする欲望や願望が働くもとである思考の枠内にある限り、その思考が編み出す虚妄の平安や慰安にエクスタシーを求めようとも、思考が抵抗となって雑念の渦を巻き起こし、決して空の本流に触れることはない。
  本来の心(本不生心)とは、全き静けさとともにあふれる空の本流すなわち大慈大悲のほとばしりである。
 このほとばしる空の本流・大慈大悲慈には、とんな分離もなく、ーも多もない。
 本来の心である慈しみのほとばしりによって、すべての分断や分裂は消える。
 このように、ブッダのヒビキには計り知れないものを感ずる。特に此岸に自己の起点を置くわれわれにとって、ブッダの親説の厳しさに、全く、圧倒されざるを得ないのである。 しかし、ブッダは。決して、此岸を超越する、彼岸の境界にあっても、その立ち位置は決して、見えざる超越世界の神々との合一によるエクスタシーや忘我に陶酔する隔絶した処にはおられなかった。実に、今、共に生きているひとりびとりとともに、彼自身が自ら覚醒するよう、対話を通じて、促されておられた。
 しかし、かく語る小生を含め、我々は仏教を高く掲げ、喧伝布教をすることはあっても、けっして、人々の覚醒を自ら促せないでいる。それはとりもなおさず、自身が相も変わらず、自己欺瞞に陥っていて、覚醒していないからに他ならない。
 だが、どんな時代に合っても、見失ってはならないブッダ親説の響きをひとりびとりが感受できなければ、安らぎは訪れないものである。
 ブッダ親説の響きは誰よりも身近なところで響き渡っているというのに・・・・・
                                                         合掌
                            萬歳楽山人 龍雲好久
 

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刻々と変化する事象に向き合う [思索]

 

 

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   刻々と変化する事象に向き合うという場合、そもそも事象とそれを認識する機能とは表裏をなしているのかもしれない。というのも、刻々とは、何かが客観的に事象を見て、それらが刻々に変滅していると認識したが故に刻々というのではなく、常に新しい状態が刻々であり、刻々には、時間の逆進性は無く、時間の漸進性もないことを示すのであるから、もともと時間はない。顕れることは消えることと同時であるが如しで、そもそも、顕れることは先験からやってくるが如しだが、先験は未だ顕れていないのであり、顕れた瞬間、消失するから、把握された瞬間、消えているのであり、それは時間の連続ではなく、また変化の推移ではないし、生滅・生死ではない。顕れと消失が同時である。これは論理的矛盾であるのか。 
 また、そもそも顕れると認識されること自体が虚妄であるなら、事象そのものを仮として否定してしまう虚無であるのか 
 ここで注意しなければならないことは、刻々の事象は実相で先験より今に経過し消失するとは時間の推移でもなければ、有無の無ではなく、顕れは今の実相で、顕れは過去のものでも未来のものでもなく、常に今であり、今目撃していることが実相である。 
しかし、目撃者すなわち経験者があればそれは過ぎ去て消えたものの記録すなわち虚像をぱらぱらとめくって連続性を与え、あたかも実像が動いているように錯覚する張本人である。 
 しかし、ここで注意が必要で、虚妄と実相は異なるのだが、実相を虚妄化する構造がこの張本人であり、張本人の虚妄性に陥らないことが重要だということ。 しかし、実相を虚妄化するからといって、実相に向き合うことそのものが否定されるのではない。 
 つまり、我々の虚妄性の構造は今の実相を記録化しそれを根拠おいてしまうことで、常に新たである実相に向き合わないでいることを虚妄という。記憶にもとずく自我や心を中心おいて実相に向き合うため、今の実相の真実に向き合う眼(存在の全体)を曇らせゆがめ、それが、実相にたいし、ゆがめ、ゆがんだ、行為(実相とずれた行為)を展開するという実相と自我の分離をもたらし、それが、世界の混乱を招いているという構造にあることを虚妄という。   
 これをふまえると 
刻々が実相であると認識する本人もまた、刻々の実相であるから、世界は微粒子から無限宇宙に至るまで刻々の実相の顕現である。 
 その実相に向き合う我々は刻々の実相に対して、虚妄に陥らず、ひたすら自分の実相が実相に向き合うことに真剣でなければならないということである。 
 実相に向き合う事実に虚妄を持ち込むなということである。森羅万象は人間をのぞけば万生万物巨大宇宙からミクロ宇宙にいたるまで、実相に向き合うととが本不生が先験より今に経過し消失する実相を展開しており、そこに何ら虚妄は無いのである。  
 つまり、本不生は常に先験性にあり、実相は今に顕現しているが、時間の逆心性は実相としてはなく、あくまで、時間は本不生の顕現として記録された虚妄の実態において可能である。 
 この理解を深めようともがいている背景に、たとえば歴史と文化、文明の展開への人類の壮大な営みをどう見るか。そればかりでなく、大宇宙や大自然界の生成進化を展開し続けるその実相とは何かを把握しなければ、本不生論も単なる虚論に過ぎなくなる。 
 本不生は虚妄性の上に乗るものではない。 
 しかし、この微風、鳥の声、修学のチャイム、陽光・・・・これらは、虚妄ではなく実相であり、またこの大自然界は実相である。それを虚妄化しているのは、我々が、刻々の今を全く新しい顕現としてキャッチしているのに、認識と同時に残滓としての自然界を実体視し、そこで全く本不生が見えなくなる。虚像を見て実相をみない。まさしくそれを虚妄に陥るというのである。 
 刻々が本不生。刻々が今。この今に向き合うこと自体は本不生のもので、刻々のものである。 
 感受した瞬間、感受したものは過去となって消え去り、媒体に記憶されたバーチャル世界のみが時間と空間の把握となり、その把握には起点となる中心を仮設する。その中心をどこに置くかで時間と空間の様相は変わる。人間には壁であっても素粒子には広大な自由空間であるように、無限に微細で、無限に巨大。起点となるところから比較して、無限小であるといい、無限大であるという。それ故、いつでも、無限を掌握しきれないし、極小も見失う。が、それはどこまでも極大も極小も本不生の刻々の顕現であるから、森羅万象いっさいは本不生であり、刻々の今である。 
 その感受する媒体において、森羅万象は生成発展をなすが、それは、先験性より今に経過し消失する逆進性のない創発であり、その媒体は本不生の創発である。 
 もっとも身近である感受する媒体の心身も統合体としての時間の推移は、統合体の五感には時空として掌握されるが、しかし、媒体となるものの位置によってそれらは変わるが、不生においては常に先験より顕れている事実は変わらない。 
 故に本不生の実相は虚妄性の中でも厳然としており、虚妄性の有無に関わりのない非有無である。

 


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